凄まじいコントラストの小説 〜ボヴァリー夫人〜

一ヶ月かけてフロベールの『ボヴァリー夫人』をようやく読み終わりました。十年以上前に一度読んでいるので今回は再読なのですが、おぼろげに記憶していた物語とは全く違っていました。そして、前回読んだ時にはこの小説のすばらしさ、そして怖さをまったく理解していなかったように思います。「凡庸」な趣味を追い求めるミーハーで馬鹿な女が浮気に憧れて自滅する話、という私の以前の理解は、間違いというわけではないけれどピント外れの皮相な理解と言わざるを得ません。

はっきりいってすごい小説です。凄まじく残酷で、そしてはかない美しさを持つ小説です。素晴らしい、というのはちょっと言葉がちがう気がするが、紛うことなく傑作。夢と現実の相克を描いているとはよく言われますが、人間の最も美しい部分と最も卑しい部分、繊細さと無神経さ、無邪気な夢と金がすべての冷たい現実などが、いずれも最高の純度で描かれていて、その光と影のコントラストの高さはただごとではありません。

たとえば十二章のこの部分。何度読んでも泣けてしまう。

主人公のエンマは医者のシャルルと結婚し、ベルトという娘もいて、一見すれば何不自由ない生活をしている。ところがエンマは精神的に満たされず、ロドルフと浮気をしている。鈍感なシャルルはそのことにまったく気づかない。それどころか、ロドルフとの駆け落ちを夢見るエンマをシャルルは「結婚当時のようにみずみずしく、たまらないほど美しく」思うわけです。

シャルルは夜中に帰ってきたとき、彼女を起こす勇気がなかった。磁器製の豆ランプはゆらめく火影をまるく天井に描き、小さい揺籃に引かれたカーテンを見つめた。子供の軽い寝息が聞こえてくるような気がした。子供も近頃はすくすく大きくなってゆく。季節ごとにめきめきと成人するだろう。シャルルはこの子が服にインキをつけ、バスケットを腕にぶらさげて、日暮れごろ、ニコニコ学校から帰ってくるさまを想像した。小学校を出たら塾へ入れねばならぬ。ずいぶん費用がかかるがどうしたらよかろう。彼は思案した。近所に小さな農園を借りて、毎朝往診の途中に自分で指図しようと考えた。農園の収入を節約して郵便貯金にしよう。それから、どれでもよい、株を買おう。それに患者もふえるだろう。シャルルはそれを当てにしていた。というのも、ベルトを立派に育て、女のわざを仕込み、ピアノも習わせたいからのことであった。ああ!この子がやがて十五にもなったら――そして母親似のこの子が、夏がきて、母親と同じ大きなむぎわら帽をかぶったらどんなに可愛いだろう!遠くから見たら、みんなが姉妹と間ちがえるかもしれない。彼は娘が夜、ランプの下、自分たちのそばで仕事するさまを想像した。あの子は自分にスリッパーの刺繍をしてくれるだろう。あの子は家事を切りもりするだろう。あの子はやさしさとほがらかさで家じゅうをいっぱいにしてくれるだろう。それからいよいよ嫁入りのことを考えてやらねばならぬ。地位の安定した実直な男を見つけてやろう。その男は娘を幸福にしてくれるだろう。そしてそれがいつまでもつづくだろう。

あと、今回読んでみていつくかの記述を面白く思いました。何の比喩でもなく、何も暗示していないように思える次のような箇所。例えば八章の共進会のシーンで、消防組の副隊長をしているテュヴァシュ氏の末っ子が「冑の下でまるで子供のようにニヤニヤ笑っていた」という部分、それから十三章の始め、

 家に帰るとロドルフはいきなり机に向かった。それは猟の記念として壁にかかげた鹿の頭のちょうど下であった。

という部分。ほとんどカフカやシュルレアリズムを思わせるこうしたイメージをコラージュする手法をフロベールは半世紀も前に先取りしていたのだった。

家族という部族 〜心臓を貫かれて〜

マイケル・ギルモア著、村上春樹訳『心臓を貫かれて』を読みました。アメリカのある異常な、しかし同時に象徴的でもある家族を描いた驚くべきノンフィクションです。

二人の人間を殺して死刑になったゲイリー・ギルモアという人物がいる。その歳の離れた弟である著者は、ゲイリーという犯罪者を生んだギルモア一家の歴史を両親の生い立ちから初めて丹念にたどっていく。そして、ゲイリーの犯罪とその死刑がいかに他の兄弟や自分に影響を与えたかを語る。

その家族の想像を絶する物語をここに要約することなどとてもできないので、それは本書を読んでいただくことにして、ここではちょっと前に話題になった『ハーバード白熱教室』という番組をみていて心に引っかかった点との関連について述べてみたい。

あの番組の中で多くのアメリカ人が特つ意見に特に違和感を感じた部分が二つある。一つは犯罪を犯した兄弟を「売る」かどうかという質問をした部分だ。売らないという意見が多く出た。日本でこの授業の続編(『ハーバード白熱教室@東京大学』としてやはりNHKで放映された)をやったときには、警察に通報するという意見がほとんどだったように思う。

この点について、本書のモルモン教についてのくだりを引用したい。著者やゲイリーたちの母親であるベッシー・ギルモアは厳格なモルモン教徒の家で育てられ、著者もまた若いころ母親に影響されモルモン教徒として活動していたことがあったのだ。

 ベッシー・ギルモアが自分の身内と生まれた土地を罰することを望んだ理由を説明するためには、彼女の育った家族と歴史について少し語っておかなくてはならない。母は今世紀の初めにモルモン教ユタ州に生まれた。ユタ州は多くの点で、まわりを取り囲むほかのアメリカとは性格を異にした土地だ。モルモン教徒たちは長いあいだ、自分たちの異種性と結束力を強く鮮明に意識してきた。現代における神の選良と自負していただけではなく、自分たちの信仰とアイデンティティーは長い血塗られた歴史と、厳しい流離によって鍛え上げられてきたと考えていた。彼らは弧絶した人々であり、自分たちだけの神話と目標を持つ人々であり、すさまじいまでの暴力の歴史を背負った人々だった。
 母は子供のころにモルモン教徒たちの伝説を――その奇跡や迫害の物語を――山ほど聞かされていた。そして同じ話を、今度は自分が、小さいころの僕や僕の兄に話して聞かせた。多くはモルモン教がその創成期をいかにして闘い生き延びてきたかについての話であり、とりわけモルモン教創始者である殉教者ジョゼフ・スミス・ジュニアについての身の毛のよだつ話だった。スミスは見事なイマジネーションとヴィジョンを持ち合わせた人物であり――実際にアメリカの歴史においても有数の、創意に満ちた神話の作り手であった――自らのきわめて個人的なオブセッションを、ひとつの入り組んだ、神学とフォークロアの勇壮な混合物に転換することに成功した。スミスはもともとは血筋という業を土台として、その上にすっぽりと載せるようなかたちで、彼の複雑な神学を構築したのである。「自分が継承した夢と負債から、人はいかにして救済され得るか。さもなければ、終わってはいない呪いのために、人は滅ぼされてしまうことになる」というのがその論理だった。この命題がほかならぬ僕の一家に届けられたとき、それは致命的な結果をもたらすことになった。
 スミスのもっとも有名な著作はいうまでもなく『モルモン書』である。一八二〇年代の初めに初めて出版されたこの書は、同じ時代にアメリカ人の手によって書かれた宗教的テキストや小説の中では、今でも輝かしさを保っている数少ない例のひとつである。そしてそれは百六十年以上の歳月にわたって、モルモン教――現代においてもっとも急速な発展を遂げた宗教のひとつ――を確立するための中心的なファクターとなった。『モルモン書』の起源は魅惑的ではあるけれど、その分、議論の的になっている。スミスの言によれば、それは神に遣わされたモロナイという名の天使が彼に示した一揃いの古代の金版から書き写されたものである。金版には古代のアメリカに住んでいた人々の歴史と、彼らとイスラエルの神との関わりが記されていた。要するにスミスは、長いあいだ失われていた旧約聖書新約聖書との聖なる結合を見いだしたと主張していたわけである。
 『モルモン書』は多くのアメリカ人の心に大きな衝撃を与えたし、今もなお与えている。その中心的な魅力を読みとるのは、べつにむずかしいことではない。聖書から借用してきたうわべの部分を『モルモン書』から全部取り払ってしまえば、あとに残るものはアメリカ人の大好きなふたつの題材――家庭と殺人――を扱った活劇以外の何物でもないのだ。
 ジェームス王による聖書の英訳の向こうを張る文体で書かれた――あるいは少なくとも記述者たちに向かってスミスが語った――『モルモン書』には、リーハイという信仰篤い預言者に率いられたユダヤの一族の一千年にわたる年代記が記されている。リーハイは紀元前六〇〇年に親族と友人たちを連れて腐敗しきったエルサレムの町を脱出した。神の導きのもとにリーハイと息子たちは一隻の船を建造し、新しい世界へと向けて船出した。そしてその土地でリーハイは、人生の最大の目的は――救済にいたる唯一の道は――神の法に従うことを通して神の愛を勝ち取ることであると説いた。しかしリーハイ一族の中にはつねに対立があった。年老いた預言者は死ぬときに、年下の息子のニーファイを自分のあとを継ぐ家長兼預言者に指名したのだが、その決定は年長の二人の息子(レーマンとレムエル)に苦い思いをさせた。レーマンとレムエルは父親の継承者指名に対して怒りを募らせただけではなく、ニーファイと旧世界の信仰の対象に対しての怒りをも募らせた。身の危険を感じたニーファイは、自分の一族を引き連れて兄たちの領地から出ていくことを余儀なくされた。神はレーマンとレムエルの謀反に激怒し、また高慢と血に飢えた性向を怒り、彼らに赤い肌の呪いをかけた。汝らの子孫は一人残らず、父親たちの犯した罪を償うためにその汚れた肌をいつまでも担い、神の不興を身に感じ続けるべしと宣言した。このようにしてニーファイ派とレーマン派の分裂が生じ、この分裂は『モルモン書』の中心的な歴史力学を形成することになった。
 それから千年のあいだ、ふたつの部族の子孫たちはほとんど間断なく戦争を繰り返してきた。一方の側は正しい血を受け継ぐものとしての代価を支払い、もう一方の側は彼らの悪しき祖先たちから引き継いだ不服従と殺人の血筋をなぞって生きることを運命づけられていた。あとになって(それがこの書物のもっともあっと驚く部分なのだが)、イエス・キリストが――十字架にかけられ、復活をとげたあとに――これらの人々のもとを訪れ、救済の教義と平和の助言を与えることになる。でも平和は長くは続かない。暴力が戻ってきて、殺戮が地表を覆う。『モルモン書』の結末には、一人の男の声だけが残る。ニーファイ側の最後の生き残りであるモロナイの声だ。彼は死んでしまった自分たちの同族たちの歴史と、彼らの最後の戦闘について思いを巡らせる。戦闘はデソレーション(廃墟)と呼ばれる都市で開始されたものだった。戦闘が終わったときニーファイ側の死体は、血に染まり死に瀕した国の光景の中に幾万と山をなしていた。生き延びた一握りの子供たちは彼らの父親の肉を食べることを余儀なくされた。そしてモロナイは、もとを正せば同胞であるレーマン派の人々が自分を殺しに来るのを座して待つしかないのである。

モルモン教徒はアメリカの中で少数派でしかなく、しかもギルモア一家はなおさらアメリカの標準的な家庭とは言えないことは承知の上で、この『モルモン書』や『ハーバード白熱教室』にあらわれた家族や兄弟に対する姿勢には、アメリカの一つの典型が見られるように思う。私の仮説を大袈裟に言えば、アメリカの家庭とは一つの部族なのだ。そして警察をはじめ、刑を下し運用する法曹でさえアメリカ人の家族にとっては他部族なのだ。それは信頼すべき相手というより、(少なくとも潜在的には)争い殺しあうべき相手なのだ。
このようなアメリカとくらべるとき、日本が「均一な村社会」などと言われるのも理解できる。日本では犯罪を犯した身内も、犯罪の被害者も、それを裁く法曹も、大多数の日本人の心の奥底ではみな身内のようなものなのではないか。息子が罪を犯す。親戚たち、あるいは村人全員が集まって相談する。そこで決められた罰に反対する理由が、私たち日本人には論理的にも感情的にも見当たらないのだ。

『白熱教室』で違和感を抱いたもう一つの点は、連帯や忠実など公共に関わる道徳価値について取り上げた部分だった。サンデル教授はマッキンタイヤによる「自己の物語的な理解」という説を紹介する(エピソード7)。我々はただ生きているのではなく、ある物語を引き受けて生きている。「私は何をなすべきか?」という質問に答えるためには、それ以前に「私はどのような物語を生きているのか?」という問いを問わねばならない。そして(とマッキンタイヤは主張する、)この自己の物語的な理解が道徳にも影響することを認めるとすれば、人は個人として善をなすことはできないことに気づく。私たちはみななにがしらかの社会の一員として周囲の環境に働きかける。私たちはみな誰かの息子や娘であり、あれやこれやの町の市民であり、ある仲間たちや部族や国の一員なのだ……

私が思うに、人がかならずある物語を引き受けて生きているというのはいいとして、なぜその物語はかならず愛国的な臭いのするものでなければならないのか?日本の戦後民主主義のような物語だってあるし、公共などとは何の関係もない物語だって可能だろう。この不自然な議論のつながりの裏にはアメリカ人に固有の思考の型があるのではないだろうか?

私の言いたいのは、例えば本書の先に引用した部分に続く以下の部分に見られるような型である。

 ジョゼフ・スミスの、この歴史以前のアメリカのパノラマには、それこそ隅から隅までまんべんなく殺人と荒廃が描かれている。暴力というものが常に説明なり解決なりを要求するものであることを考えると、『モルモン書』の恐ろしく唐突な啓示には、実に仰天させられる。モロナイが血に染まったあたりの光景を見渡して、かくのごとき大量の殺戮死滅にいたった歴史的経緯を逐一辿っているうちに、幾世紀にもわたる破壊をもたらした背後の力が、誰あろう神自身であることがだんだん明らかになってくるのである。この無人の土地にこれら流浪の民を導いたのは神であり、すさまじい抹殺にいたらざるをえない因果伝承を作りだしたのもまた神なのだ。このアメリカの最大のミステリー小説の根幹をなす殺戮の陰の設計者は、実に神なのだ。自分の原則と栄光のために、それが幾世代にもわたる終わりなき荒廃を伴うものであることを知りつつ、子孫に計り知れぬ代価を要求した怒れる父なのだ。
 『モルモン書』におけるもっとも激しい瀆神の場面は、コリホルという名のカリスマティックな無神論者にしてキリスト否定者が神の審判官と王の前に立ってこう言い放つところである。「これらの人々はその父祖の行なった破戒の故に罪があり、堕落していると汝らは言う。しかし聞け、私はここに告げる。父の罪が故に子に罪はないのだ」
 このような恐れを知らぬ暴言を吐いたために、神はその場でコリホルの口をきけなくしてしまう。そしてコリホルが心から改悛したにもかかわらず、神は赦しを与えようとはしない。コリホルはあてもなく国をさまよい、慈悲と日々の糧の恵みを乞うことになる。でも人々は彼を捕まえてさんざん足蹴にして踏み殺してしまう。

父祖の罪をその子や子孫が引き受けるというアイデアは、宗教的にお互い兄弟関係にあるムスリムたちの国に攻め入って殺しあうというアイデアと同様に、旧約聖書やこの『モルモン書』がアメリカ人の中に植えつけた、あるいはそれ以前に植えつけられていてそれらの書と同調したりそれらの書を書かせたりした、アメリカ人(西洋人?)に固有の精神構造の中から浮かび上がってきたものなのではないだろうか。

低層社会のスポークスマン 〜廖亦武へのインタビュー〜

以下はル・モンドによる廖亦武へのインタビューの翻訳です。廖亦武は中国の反体制作家で、現在日本で唯一出版されている彼の著書『中国低層訪談録』このブログでも紹介しました

蛇足ながら、ここにこれを訳出するのは中国を貶めるためでは決してありません。むしろその逆で、中国人も日本人やその他の国の人々と同じような倫理観、名誉と不名誉、恥と厚顔無恥についての感覚や美意識を持って生きていることを示すのが目的です。現在フランスで進行中の年金制度改革に反対する大規模なデモについての彼の考え方や、できるかぎり亡命をせずに中国内にとどまって低層社会に生きる人々の声を世界に届けようとする姿勢に私は深い共感を覚えました。読んでもらえば分かると思いますが、このインタビューは中国人に対する印象を良くすることはあっても、悪くすることは決してないはずです。

(以下、インタビューワーによる質問は太字で表します。)


低層社会のスポークスマン

十五回の試みのあと、あなたはようやく中国を離れ、ベルリン、パリを回って北京に戻る旅に出ることができました。西欧での第一印象はどんなものですか?

ベルリンでは、私はすぐに二十世紀の過激思想、ナチズムと共産主義が残した跡に気づきました。私は西側と東側の交差点に立っているような気がしました。それらの記憶の刻印と現代史が交差するあり様に興奮しました。パリでは、いままで一度も連絡を取ることができなかった、私と同様人権のために戦っている反体制側の友人たちと会うことができました。
その一人が私を中国人の観光客たちが訪れる場所に連れていってくれました。面白かったのは、Galeries Lafayette(有名な百貨店)を中国語に訳すと「老仏の場所」となることです。しかしそこは悟りからはなんと遠いことか!そこでたくさんの中国人団体客たちがパリをうめつくしているのを見ました……観光客の群の方が人民解放軍よりどれほどましでしょう!

あなたの目に映るヨーロッパは中国で想像していたものと同じでしたか?

想像していたものとここで見た現実との間にはずれがあることが分かりました。私がパリに対して抱いていたイメージは何よりも文学的なものでした。私たちにとってパリとはバルザックであり、カミュであり、サルトルであり、そういった古いイメージに基づくものでした。
それからまた革命的なパリのイメージ、1968年の五月革命やその無政府主義的なスローガンやバリケードが頭にありました。私の中ではパリはとても左翼的な、破壊思想と熱狂の街でした。ここに着いて私は思いました:あれ?パリも老いたなあ!

しかしあなたは今もまだ続いている年金制度改革反対運動の盛り上がりのまっただ中に到着したわけですが……

それはまさに私の意見を裏打ちするものです、なぜなら五月革命ではフランス人は理想のために闘ったのに今日では小さな損益を守っているだけなのですから!

あなたがようやく中国を離れることができたのはなぜだと考えますか?

私はメルケル独首相の密使の訪問を受けました、というのもドイツは中国と緊密な文化交流をおこなっているからです。彼は首相からの挨拶を届けてくれました。私が特に文学や音楽の交流のためにドイツに行こうとしていることを知っていたのです。
私はメルケル氏への贈り物としてドナースマルク監督による2006年のドイツ映画『善き人のためのソナタ』の海賊版DVDを準備しました。東ドイツ諜報機関シュタージのあるメンバーによる諜報活動とその苦しみを描いた作品で、そのケースは中国人芸術家によるレシーバーを耳につけたスパイの絵で飾られていました。
これを機会にメルケル氏は私が生まれて始めて国外に出られるよう手配してくれたのです。ドイツの記者たちはこのことをとらえ、中国での違法コピーや首相が違法な品を受け取ったことについて辛辣に書きたてました。
直近の中国への訪問で、メルケル氏は40億ドル(28億8千万ユーロ)の商談をまとめました。私はこの裏取引が私の出国許可を間違いなく後押ししてくれたのだと思います。

あなたは十月八日の劉暁波によるノーベル平和賞受賞のニュースをどこで聞き、どんな風に受けとりましたか?

そのすごいニュースを聞いたとき、私はフランクフルト書籍見本市に行くところでした。これがもし一年前の、中国共産党公認の百三十人の作家を含む千五百人もの中国政府職員の代表団が赤絨毯で迎えられ盛大にもてなされた前回の見本市の最中に起きたとしたら、どんな衝撃を与えただろうかと私は思いました。
今年は、私は確かに孤立していたけど、でももちろんうれしかった。中国語から翻訳された稀少な本が何冊かネオンで照らされたスタンドの上に積み上げてあって、その向こうで中国からやって来た役人が居眠りしてました。私たちの国では、その照明の仕方は鶏肉とか野菜とか卵なんかの食品の売り場でよく使われているもので、もっと強い光の方がそれらの作品を引き立たせるだろうしよりふさわしいのにと思いました。
劉暁波に与えられた褒賞について、私はそれは反体制活動家に与えられたものであると同時に作家に与えられたものだと考えます。私にとってそれはノーベル平和賞であると同時にノーベル文学賞でもあるのです。

ノーベル平和賞があなたの友人である劉暁波と人権のために闘う闘士たちに与えられたことによる精神的な支えの他に、それは中国共産党に対してどんな政治的影響を与えるでしょう?

私は政治家じゃないし、私の持つ断片的な情報だけでは中国共産党の神秘を分析するには不十分でしょう。しかし私が思うにこの賞は、何年ものあいだ、一般の人々の沈黙と無関心の中で人権の状況や政治改革の緊急性を知ってもらおうと、より多くの自由を求めて闘ってきたすべての人に対する感謝を表したものなのでしょう。それはまるで真実を覆っていた帳が突然裂けたようなものです。

中国の発展は中華帝国と経済的なつながりを持つ民主主義諸国が中国による政治的自由の軽視を告発しようとする際の障害となってはいませんか?

この状況を理解するには、1989年の民主化革命と天安門広場での抗議運動から始める必要があります。それは私たちの生活を揺るがした中国現代史の転換点でした。この事件の後、劉暁波比較文学の教授から反体制活動家となったのです。私は詩人から反体制作家となりました。
1989年の春に放映された、ドキュメンタリー作家Su Xiaokangによる中華文明についてのドキュメンタリー『河挽歌(L’Elegie du Fleuve)』は天安門広場での大きなデモを引き起こしたきっかけの一つでした。Su Xiaokangは亡命しました。
これらベテランのうちの多くは民主化革命にさよならを言って去っていきましたが、ごく少数は劉暁波や私のように反体制の赤信号をつけられたために運動を続けていったのです。
中国研究家たちもまた彼らなりに同様の選択を迫られました。大多数はビザを得るために体制側と妥協し、ごく少数だけが、もう中国に行くことができず、彼らの好む国で仕事をせざるを得ないリスクを受け入れて異議を唱え続けたのです。

それらの中国研究家たちは、あなたの意見では、中国での基本的人権の状況を覆い隠すことに加担したのでしょうか?

世界中のほとんどの中国研究家たちは、この大国の「驚異的な経済発展」のみを重視することによって中国外における中国理解に有害な影響をもたらしました。
私に言わせれば不名誉の極みは2009年のフランクフルト書籍見本市で、そこでは中国側の官僚はすべて受け入れられ、従順で体制に認められた作家以外の作家たちは自分の意見を表明できなかったのです。中国研究家の中には国家の医者、アカデミー会員、権力を持つ官僚になったものもいますが、彼らはそうして歴史から外れてしまったのです。中国研究家の多数派は中国の現実とその外国向けの虚像との間に不透明な壁を築き上げてしまったのです。

あなたはフランス在住のノーベル文学賞作家である高行健のような亡命作家たちの沈黙をどのように説明しますか?

それはたいしたことじゃない……でももしノーベル平和賞文学賞がフランス人に与えられたのだったら、彼も前向きなコメントをしたに違いないと思います。

劉暁波はあなたの文学だけでなく、同様にあなたの市民的、政治的、肉体的勇気を賞賛しています。なぜならあなたは四年もの間の収監と繰り返される拷問を経験したからです。彼はしばしば自分は“VIP”囚人だったけど、あなたは特にひどく扱われていたと言っていますが……

牢獄は誰にとってもつらいものです。しかしそれは私にとって文学の学校でした。フランクフルト書籍見本市に招待さえたあれらの中国人御用作家のように私もなったかもしれないわけですから。1989年以前は私は詩人で、将来のことには無頓着でしたが、人生については何一つ分かっちゃいなかったし、私は酒を飲み、ドラッグに走り、そのすべての機会と快楽を貪っていました。牢獄で私は密輸入業者や麻薬の売人やポン引きたちに出会いました。口にするのも汚らわしい話も聞きました。でも結局それらはとても興味深い話でした。というのも、それが私に自分の国の真実を明かしてくれたからです。
牢屋を出たあと、私は社会の低層に入り込みました。私は乞食になったのです。二年の放浪のあと、私は自分が出会った貧民たちが教えてくれた知識の重要性について気づき始めたのです。私の書くもののスタイルを変えたのはそれです。私の詩人としてのロマンチックな側面はそれ以来消えました。二十年前から私はこの種の話を三百以上書いてきました。私の文学のレッスンは低層社会から与えられたものであることを強調しておきたいと思います。

『中国低層訪談録』(2006年)から『四川で地面が開くとき』(2010年。日本では未公刊)まで、あなたはこのダンテ的な地獄、バルザックというよりもゾラかオーウェルによって書かれたような人間喜劇を描写し続けています。この人間喜劇に典型的な人物のタイプというのはありますか?

庶民の肖像は二つの大きなカテゴリに分かれると思います。一方は虐待を受けて苦しんでおり、他方は恥にまみれて生きている。中国の歴史は悪循環にはまっていて、というのも悲惨から抜け出るためには破廉恥になり盗みや強姦や売春をしなくちゃならない、そしてその結果として周囲の人々の苦しみを増してしまうわけです。
牢獄の中では生き延びることが最優先ですから、私は自分の作家や政治犯としての立場を忘れていました。ただそういったよろいも役には立ちました。私たち知識人はペンや名声を生き延びるために利用できるのです。
低層社会の人々はその悲惨な人生の中に、自分を表現する術もなく閉じ込められているのです。なぜなら、たとえインターネットがいくばくか中国人を変えつつあるとしても、エリートと低層社会をつなぐ橋などあったためしがなかったからです。私は彼らのスポークスマンになりたいのです。

なぜあなたは牢獄を出たあと詩を書くのをやめたのですか?西洋では怖ろしい出来事に面したときに取りうる倫理的、詩的態度として少なくとも二つあります。悲劇のあとに詩を書き続けるのは好ましくないという態度と、詩はその惨事を書き続けられるはずだという態度です。あなたは自分はどちらだと考えますか?

このジレンマ、葛藤のことはよく分かります。私にとっては問題は倫理的というより現実的なものなのです:私は今“ラオ・ウェイ”というペンネームをつけたもう一つの人格の罠にはまり込んでいて、人はますます多くの話を彼に語りに来るのです。私にはもう書いている時間も他のことをする時間もありません。それらの話を聞いていると、文学というものは決して現実には追いつけないと思わされるのです。どうやって一人の詩人があのような地獄めぐりを描けるでしょう?

あなたにとって一番ショックだったのはどのような話ですか?

大概はいつも最後に聞いた話がショックです。ですが特に酷い話を一つ覚えています。ある男がある日私に、1950年の農場改革のころに初めてよちよち歩きを始めたときのことを話してくれました。彼はそのとき赤ん坊で、母親が首をつり父親が銃殺されたその日に一人で家から畑に出て、それから茨の藪まで坂を上ったのです。彼は地主の息子で追放されるか殺されるかしかないところを、哀れに思ったある農婦が自分の子として育ててくれたのです。
この秋、中国を出てヨーロッパに来る直前に、倒産したばかりのレストランの主人がその失敗を私に語りました。その不幸を語りながら、彼はその店で使っていた、植物油よりも廃油の割合の方が多い混ぜもの入りの油の製造の秘密を私に説明してくれました。しかし私が怖ろしく感じたのは、倒産してなければ彼がそのことを私に言うことは決してなかっただろうということです!
この種の話は毎日あります……最近私は成都で大変評判の魚の餌がかつてはニワトリの糞で、そして今では人間の糞便であることを知りました。でも誰もそのことをビジネスのためにやってきた西洋人には言いません。

中国の経済発展の魅惑についてはどのように考えますか?

中国はたくみに隠されてはいますが投機的なバブルの中にあります。外国に一番たくさん投資して、システムがはじける前に逃げた者らがいちばん儲けてきたわけです。彼らは当然ながらバブルについて人に知らせるよりもそこから利益を引き出すことを考えますし、そうやって経済的な大成功の物語を広め続けるわけです。システム全体がいかさまに基づいているのにです。
不動産を例にとりましょう。セメントやブロックや鉄骨の品質は非常に悪いです。これから十二年、十四年後には、文字通りと比喩の両方の意味で、すべて灰燼に帰すでしょう。でも投機屋たちはその老後をリビエラバンクーバーで静かに過ごすことでしょう。もし、いつか私が亡命することになったとしても、彼らとご近所として付き合いたくはないですね!

亡命については考えますか?

いいえ、私は中国にとどまりたいし、私の創造の土地にとどまりたい。それに、私はこの仕事をしたいし、それが誇りなんです。私の仕事は証人、歴史の代書人になることです。それは中国の栄えある伝統の一つなんですよ。私は非才ながら漢王朝の偉大な歴史家の一人、司馬遷の列に連なりたいと思っています。彼は本当のことを言ったために虚勢されました。もちろん私はそこまでなりたいとは思いませんが!

(Nicolas Truongによるインタビュー、翻訳Marie Holzman)

 

発信力よりも消化力 〜日本語が亡びるとき〜

水村美苗『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』を読んだ。

むちゃくちゃ刺激を受けた。本書が重要な本であることは間違いがないと私は思う。日本語や小説に興味のある人だけではなく、言葉を使うことを生業にする人、現代日本において日本語かあるいは西洋の言葉で学問をする人、いやそれにとどまらず、どんな形であれ明治維新以来の西欧文化の影響を受けて生きている人、つまりは現代に生きるすべての日本人にとって、重要な事実の指摘と考察と提言をこの本は含んでいる。

その一方で、これは実に奇妙な本だ……著者が論証しようとしていること、つまり<叡智を求める人>が<読まれるべき言葉>を読み書きする媒体としての日本語はいま亡びつつある、という命題のために著者が引き合いに出す事実が、ことごとく著者の意図に反してその反対の命題、つまり、日本語は亡びないということを示しているように、思われてならないのだ。それはまるで、著者はまったく逆のことを証明するために戦略的にある主張をしているようでもある。この本が英語圏で読まれ、それによって少しでも日本語を<普遍語>に近づけ、あるいは英語との戦いを有利に運ぼうと、わざと英語におもねっているようでもある。もちろん、著者がそのような戦略を意識的に持ってこの本を書いたということは(多分)ありえないだろう。しかし、著者自身が気づかずにいる著者の中のある欲望、ひょっとすると近代日本文学という通路を通って知らず知らずのうちに著者の中に移植された「偉そうな男」たちの欲望が、このような本を書かせたということは、ありえないことではない。

日本に数え切れないほどの文学の新人賞があり、日本列島全土に細かい網をはって、わずかでも書く才があれば拾い上げてくれるようになって久しい。すべての国民が文学の読み手でもあれば書き手でもあるという理想郷は、その理想郷を可能にするインターネット時代が到来する前、日本にはいち早く到来していたのであった。
 だが、そのときすでに日本近代文学は「亡びる」道をひたすら辿りつつあった。

ここでもう一度日本を離れ、「文学の終わり」について考えてみたい。
 今、世界中の多くの人が「文学の終わり」を憂えているが、それは、過去に黄金の時代を見出しては懐かしむという老いの繰り言の類いのものではない。人が「文学の終わり」を憂える背景にはまごうことのない時の移り変わりがあるのである。そこには歴史的な根拠がある。
 その歴史的な根拠とは何か?
一つは、科学の急速な進歩。二つは、<文化商品>の多様化。そして三つは、大衆消費社会の実現。主にこの三つの歴史的な理由によって、近代に入って<文学>とよばれてきたもののありがたさが、今、どうしようもなく、加速度をつけて失われていっているのである。

しかし著者は「それでいて、広い意味での文学が終わることはありえない」と言う。なぜなら、科学は「人はいかに生きるべきか」という問いに答えてはくれない、人間には<書き言葉>を通じてのみしか理解できないことがある、<叡智を求める人>が<読まれるべき言葉>を読みたいと思わなくなることはありえない……。

 ほんとうの問題は、英語の世紀に入ったことにある。

 これから五十年後、さらに百年後、さらに二百年後、そのような<叡智を求める人>が、果たして<自分たちの言葉>で<読まれるべき言葉>を読み続けようとするであろうか。
 それは、<国語>というものが出現する以前、地球のあちことを覆っていた、<普遍語/現地語>という言葉の二重構造が、ふたたび蘇ってきたのを意味する。

(太字部分は原文では傍点)

インターネットという技術の登場によって、英語はその<普遍語>としての地位をより不動のものにしただけではない。英語はその<普遍語>としての地位をほぼ永続的に保てる運命を手にしたのである。人類は、今、英語の世紀に入ったというだけではなく、これからもずっと英語の世紀のなかに生き続ける。英語の世紀は、来世紀も、来々世紀も続く。英語と英語以外の言葉を隔てる言葉の二重構造は、今世紀だけでなく、来世紀も、来々世紀も、そしてその先も、多分ずっと続くのである。

 インターネットによる英語の支配と、インターネットで流通する言葉が多様化しているという事実とは、まったく、矛盾しない。英語と英語以外の言葉とでは、異なったレベルで流通しているからである。
それは、インターネット上でいずれ実現する<大図書館>というものについて考えれば明らかである。

<大図書館>が実現しようと、そこには、こと言葉にかんしては、背の高い言葉の壁で四方が隔てられた、ばらばらの<図書館>が存在するだけである。そして、それらの<図書館>のほとんどは、その言葉を<自分たちの言葉>とする人が出入りするだけなのである。
 唯一の例外が、今、人類の歴史がはじまって以来の大きな<普遍語>となりつつある英語の<図書館>であり、その<図書館>だけが、英語を<外の言葉>とするもの凄い数の人が出入りする、まったくレベルを異にする<図書館>なのである。

 そしてこの英語への一極化はインターネットや自然科学系の学問だけではなく、社会科学、人文科学へと広がりつつある。そして著者は、その動きはやがて<学問>の領域を越えてその外へ広がっていくだろうと言う。本来は別の言葉に置き換えることのできない<真理>、それに到達するにはいつもそこへと戻って読み返さねばならない<テキスト>そのものも、そのうち英語で流通するようになるのだと。

 アリストテレスがいまだ読まれ続けているのは、かれの書いたものが<テキストブック>には還元できない<テキスト>であるからにほかならない。人はアリストテレスを理解するためには、最終的にはかれの<テキスト>へと戻らざるをえない。これから先も、ギリシャ哲学の専門家はアリストテレスギリシャ語で読み続けるであろう。だが、英語の世紀に入り、<学問>が英語に一極化されるにつれ何がおこるか。それらの専門家も、アリストテレスにかんして何かを書くときは、<自分たちの言葉>で書かずに英語で書くようになる。すると、アリストテレスの引用も、<自分たちの言葉>に翻訳したものではなく、英語に翻訳したものを使うようになる。その結果、アリストテレスにかんして書かれたものが英語で流通するようになるだけでなく、しだいしだいに、アリストテレスの<テキスト>そのものが、英訳で流通するようになるのである。
新約聖書』の現存する一番古い<テキスト>は、当時地中海文明の<普遍語>であったギリシャ語で残っているが、『新約聖書』がのちに西ヨーロッパに広がったとき、それは当時西ヨーロッパの<普遍語>だったラテン語訳で広がった。もとはパーリ語サンスクリットで書かれた「仏典」も、漢文圏の中国や韓国や日本では、<普遍語>の漢文訳で広がった。「聖典」そのものが何語で書かれていようと、その「聖典」は<普遍語>で広がる。
 今も昔も、これが<普遍語>のもつ力である。

 別の箇所でも著者はこう述べている。「ヨーロッパでは、教会の権威のもとで、ラテン語という<普遍語>の<図書館>に、二重言語者の読書人が、一千年にわたって吸いこまれていたのである。まさに、科挙制度のもとで、みなが漢文という<普遍語>の<図書館>に吸いこまれていたのと同じである。」
 しかし『新約聖書』が西ヨーロッパに広がったとき、フランスに書き言葉としてのフランス語があったわけではない。フランス語はラテン語からのちに派生したのである。中国や韓国や日本も同じで、そこでは漢文は<現地語>(中国の場合)であるか、あるいは書き言葉がなかった(日本などの場合)のだから、<現地語>と<普遍語>の間で<普遍語>が選ばれたというのとは違う。
 しかし著者は、この先でさらに大きな跳躍をおこなう。

 この先、アリストテレスでさえ英語で流通するようになるとき、もし英語で書くことができれば、いったいどの学者がわざわざ<自分たちの言葉>で書こうとするであろうか。
 いや、もし英語で書くことができれば、学者のみならず、いったい誰がわざわざ<自分たちの言葉>で書こうとするであろうか。
<学問の言葉>が英語という<普遍語>に一極化されつつある事実は、すでに多くの人が指摘していることである。だが、その事実が、英語以外の<国語>に与えうる影響にかんしてはまだ誰も真剣に考えていない。<学問の言葉>が<普遍語>になるとは、優れた学者であればあるほど、自分の<国語>で<テキスト>たりうるものを書こうとはしなくなるのを意味するが、そのような動きは、<学問>の世界にとどまりうるものではないのである。<学問>の世界とそうではない世界との境界線など、はっきりと引けるものではないからである。英語という<普遍語>の出現は、ジャーナリストであろうと、ブロガーであろうと、ものを書こうという人が、<叡智を求める人>であればあるほど、<国語>で<テキスト>を書かなくなっていくのを究極的には意味する。
 そして、いうまでもなく、<テキスト>の最たるものは文学である。

 これは端的に事実に、それも著者自身がここまでに本の中で挙げてきた事実にことごとく反するのではないか。著者の言うとおりだとするなら、なぜ現代のヨーロッパ人は全員ギリシャ語かラテン語で書かないのか。なぜ漢文圏に住んでいた日本人や韓国人、ベトナム人はいま漢文で書かないのか。平安時代の日本の知識人はみな漢文の素養があり、政治や学問はみな漢文でおこなっていたが、それでも日本語が亡びるどころか、数々の日本語による文学作品が生まれた。一九世紀ロシアの知識人たちは日常でも使うほど外国語に堪能だったが、ロシア語が亡びるどころか、ロシア語による数々の古典といわれる文学作品が生まれた。これらはみんな著者がこの本で触れていることなのに、どうして結論だけが反対になるのだろう?そもそも日本の近代文学が英語で書かれていないことが、その最たる反証ではないか?
 もちろん、この予想される反論に対して著者はいろいろと予防線を張っている。曰く、近代日本で<国民文学>が栄えたのは<国語の祝祭>の時代という、長い歴史の中では特殊な一つの時代に過ぎなかった。曰く、平安時代に日本が独立した文化圏として栄えたのは、日本が中国から海を隔てた列島であり、科挙制度による才能の吸出しを逃れたからである。曰く、ヨーロッパの国語で学問がなされたのは、ヨーロッパの言語が互いに似ていて、みなかつての<普遍語>であるギリシャ語とラテン語から大きく影響を受け、ほとんどの抽象言語を共有しており、互いへの翻訳が簡単だったから、等々。

 <普遍語>と<普遍語>にあらざる言葉が同時に社会に流通し、しかもその<普遍語>がこれから勢いをつけていくのが感じられるとき、<叡智を求める人>ほど<普遍語>に惹かれていってしまう。それは、春になれば花が咲き秋になれば実が稔るのにも似た、自然の動きに近い、ホモ・サピエンスとしての人間の宿命である。

 <叡智を求める人>は、自分が読んでほしい読者に読んでもらえないので、ますます<国語>で書こうとは思わなくなる。その結果、<国語>で書かれたものはさらにつまらなくなる。当然のこととして、<叡智を求める人>はいよいよ<国語>で書かれたものを読む気がしなくなる。かくして悪循環がはじまり、<叡智を求める人>にとって、英語以外の言葉は、<読まれるべき言葉>としての価値を徐々に失っていく。<叡智を求める人>は、<自分たちの言葉>には、知的、倫理的な重荷、さらには美的な重荷を負うことさえしだいに求めなくなっていくのである。

 では著者は、どうしてこの本を英語で書かなかったのか?ルネッサンス期に活版印刷がはじまると、<現地語>による書物がまたたくまにラテン語による書物を席巻したのはどういうわけなのか?夏目漱石福沢諭吉はなぜ英語でその主要な著作を書かなかったのか?
 それは言うまでもなく、夏目漱石福沢諭吉も、また著者も、日本語で考えたことを、日本人に日本語で読んでもらいたかったからである。だから日本語で書こうと思ったのだし、その結果、日本語はますます豊かになり、<読まれるべき言葉>としての価値をますます増しているのである。この本に出てくるノルウェー人やウクライナ人の作家も同様である。英語には英語の叡智があるかもしれんが日本語には日本語の叡智があるのであり、それは英語では得がたいものであって、しかも多くの日本人はその価値を知っている。


私はそもそも疑問に思うのだが、ある言語や文化が繁栄し存続していくための条件は、その発信力にあるのだろうか?

考えてみれば文化の繁栄のあり方には、論理的に二つしかない。一つは、他の文化からの影響を受けずに繁栄するあり方であり、もう一つは、他の文化からの影響を受けることにより繁栄するあり方である。前者は「自分らしさ」を追求し、先鋭化させ、洗練、円熟に至る道であり、後者は外からの影響を受けて自ら変節し、言語そのものさえ変化させながら進化、展開していく道である。
ある言葉が自分を<普遍語>であると思いこみ、他の言葉からその言葉特有の叡智を取り込むことに対する興味を失ってしまうと、その時点から言葉は「自分らしさ」を追求し、先鋭化させ、洗練させる以外の道を失う。やがて洗練がいくところにまでいきついて、言葉の潜在力がすべて開発されつくしてしまうと、そこから先は、その言葉は本質的に新しいものを生み出すことができない。ラテン語が亡びたのは、ある時期以降は「出す」ばかりで「受け入れる」ことがなかったからである。漢文も同様である。漢文や科挙制度に代表される漢族の国家は、統一がなり時代を経ると常に弱体化して、異民族に攻め込まれるということを繰り返してきた。そうやって異民族からの暴力的な刺激を受けてようやく少しだけ息を吹き返すということを繰り返してきたのである。著者もまた、福沢諭吉による「江戸幕府の政治に正当性を与えつづける朱子学者たちへの怒り――漢文の<図書館>の外へは一歩も出ようとしない儒者たちへの怒り」について述べている。ミミズだって外部からの刺激がなければまともに育たないと安部公房も書いているではないか。現代のフランス語も、森羅万象あらゆることが自分たちの形而上学で説明ができ、自分たちの分類法で分類できるはずだというその思想に宿る信念の傲慢、中華思想が、まさにフランス語や思想の弱体化を引き起きしているように思えてならない。

つまり発信力ではなく、包容力、あるいは消化力が重要なのではないだろうか。多様なものを多様なまま受け入れて、なんとか自分たちの言葉の中にそのエッセンスを吸収する能力。自分たちの言葉では生み出すことのできない叡智を外部から取り入れる能力。「出す」のではなく「受け入れる」能力。そしてその過程で、自ら変化していく能力……これらの能力こそが、ある言葉が亡びないために重要なのではないだろうか。

 著者は言う。

 たとえば、どうやってかれらが知ることができるでしょう。どのような文学が英語に翻訳されるかというとき、主題から言っても、言葉の使い方からいっても、英語に翻訳されやすいものが自然に選ばれてしまうということを。すなわち、英語の世界観を強化するようなものばかりが、知らず知らずのうちに英語に翻訳されてしまうということを。どうやってかれらが知ることができるでしょう。かくしてそこには永続する、円環構造をした、世界の解釈法ができてしまっているということ――世界を解釈するに当たって、英語という言葉でもって理解できる<真実>のみが、唯一の<真実>となってしまっているということを。そして、そのなかには、英語で理解しやすい異国趣味などというものまで入りこんでしまっているということを。

 英語に限らずどんな言語でも、それへと翻訳される内容を選ぶであろうが、その選択の幅がせまいということは、長い目で見れば英語の支配を有利にするのではなく、逆に英語を貧困にし、その支配を終らせる方向へと働くはずだ。
例えばこのブログでも取り上げた、アメリカの学者ジャレド・ダイアモンドによる『銃・病原菌・鉄』という本がある。この本は日本語に訳され、日本語でアクセスできる叡智を増加させた。
一方で、日本語で書かれた山本義隆『磁力と重力の発見』、富岡多恵子釈迢空ノート』などの本は、英語に翻訳されないかもしれない。特に後者はされないだろう。しかし、もし翻訳されることがないとしても、それは日本語にとっての打撃ではない。日本語が持つ叡智を享受する機会、日本語でならアクセスできる叡智にアクセスする機会を英語が失ったという、それだけのことである。

著者は、尾崎紅葉の『金色夜叉』が英語のダイム・ノベル(読み捨て娯楽小説)の焼き直しであることとか、芥川龍之介大佛次郎、『大菩薩峠』を書いた中里介山、谷崎純一郎が英語をよく読み、そこから多くの刺激を受けたことに触れている。これもまた多文化からの刺激、多様性こそが文化を豊かにすることの証左であろう。


しかし、多様性こそが繁栄への鍵だということを世界で一番よく理解しているのは、今のところ、たぶんアメリカ人である。
最近ある新聞に、アン=マリ・スローターという米国務省政策企画局長という職にある人のインタビューが載った。表題は「最も世界とつながった国が最強に」である。

これからの時代を特徴づけていくのは、国家が別々ながらも互いに依存し合う単なる相互依存だけでなく、相互につながっていることなのです。ネットワーク化された世界では、結果達成を可能にしてくれる官民や市民社会のアクター(行為者)とどれだけつながっているかが、パワーを左右します。この点で、米国はなお、こうしたアクターと最もつながっている、唯一の国だろうと思います。
(中略)
私が「つながっている」と言うのは、グローバルにつながっている、という意味です。国内だけでなく地球規模で、人的に多様につながっているということです。そうした多様性には、新たな考えや活力を吸収し、アイデアや製品や人々を魅力的にし、また人々を引き付けるという、とてつもない力があります。そんな結びつきは、開かれた社会でこそ起きます。

そしてこの思想を実践した例が、六月五日のル・モンドの記事(Washington à la conquête du "9-3")である。
これは、フランスのアメリカ大使館がパリの郊外などに住む「地区のエリート」や少数派民族の知識人など、将来の指導者と目される人々と次々と「渡り」をつけているという話である。その対象は、組合や教育の責任者、右や左の政治家、芸術家、若い研究者などにわたる。そして、もっとも有望視された人材には「国際ビジター」制度により、アメリカに二、三週間滞在して興味のあるテーマについて考える機会が提供される。現大統領ニコラ・サルコジフランソワ・フィヨンといった政治家も、三十歳代だったころにこの制度の恩恵を受けている。実際、これらの人々はフランス政府よりもアメリカ政府により評価されていると言える。
このように書かれた物だけではなく人そのものを取り入れ、飲み込んでしまうのがアメリカ流である。だが、それは文化の活性化のためには必要なことだ。このように外へ向けての興味が「開かれて」いるかぎり、英語は安泰だろう。英語は当分亡びそうにない。

著者の論に従うなら、フランスというもはや滅びつつある文明の、しかもパリの郊外などという「偉そうな男」が住むはずもない場所の住民など、グローバルな国際政治においてはなんの考慮にも値しない存在にすぎないはずではないか。しかしアメリカの国務省の役人たちは著者とは意見が違うようである。

著者は本著の中で、河合隼雄が座長を務めた「21世紀日本の構想」について話し合う懇談会の報告書を引いている。

 誤解を避けるために強調しておきたい。日本語はすばらしい言語である。(中略)だが、そのことをもって外国語を排斥するのは、誤ったゼロ・サム的な論法である。日本語を大事にするから外国語を学ばない、あるいは日本文化が大切だから外国文化を斥ける、というのは根本的な誤りである。日本語と日本文化を大切にしたいなら、むしろ日本人が外国語と他文化をも積極的に吸収し、それとの接触のなかで日本文化を豊かにし、同時に日本文化を国際言語にのせて輝かせるべきであろう。

 多様性こそが文化を豊かにするという、まったくアメリ国務省と同じ意見なのだが、これに対して著者は、「何だかよくわからないが、御説ごもっとも、としか言いようもない」などと、自分で引用しておきながら不思議なコメントを書いている。著者にとっては、二つの<書き言葉>を学ぶことは容易ではない、という論点だけが重要だったのかもしれないが、ここで言われているのは一人の人間が二つの<書き言葉>を学ぶべきだ、というようなことではないだろう。


 本書を読んだ上で英語の重要性を私なりにまとめてみると、現代において日本人が英語で発信することを迫られるとき、考えられる理由は三つある。
一つは、英語が経済、コンピューター、自然科学などの分野で、また一般に外国人とコミュニケートしようとするときの、事実上の世界共通語となっていること。
二つは、「洋学」をするための言葉ということ。「洋学」については著者は以下のように説明している。

 仏教学や漢学や国文学などの伝統的な学問は例外である。また、数学、物理学、科学、工学、医学などの自然科学は別である。だが、そのほかの学問はすべて西洋語と切り離せない「洋学」である。そこには知らず知らずのうちに、西洋の在り方に人類の普遍的な在り方を見いだすという、西洋中心主義が入りこんでいる。

そして三つには、市場原理である。ルネッサンス期のヨーロッパについてのくだり。

<俗語革命>――のちに<国語>を可能にした<俗語革命>は、アンダーソンによれば、需要と供給という同じ市場原理によって、その次の段階に、おこるべくしておこった。
グーテンベルク聖書」に続き、まずはさまざまな本がラテン語で出版されるようになる。ところが、ラテン語を読めるのは「広範に存在してはいても薄い層に限られて」いる。したがって、ラテン語を読む読者たちの市場はじきに飽和してしまう。新たな市場を開発するために、人びとが巷で話す<自分たちの言葉>で書かれた本が、まさに市場原理によって、出回るようになる必然性が合ったのである。

つまりこういうことだ。著者も言うように、英語は現代の<普遍語>であるだけでなく、同時にひとつの<国語>でもある。その使用人口は日本語よりも多い。もし全世界の人間の心に触れるような小説を書くことができれば、それはシンガポールでもインドでも売れ、多数の読者を獲得できる可能性がある……。
しかし英語で書くということは、英語で考え、主に英語圏の読者に対して、英語で書けることだけを書くということを意味する。

逆にいえば、日本の作家たちが堰を切ったように英語で小説を書き始めるなどということは考えにくいということである。もちろん、たまたま英語に堪能な日本人作家が英語で小説を書くことはあるかもしれない。しかしその場合、その作家は「日本語の作家」から「英語の作家」になったというだけのことである。ナボコフがロシアの作家から英語の作家になったように。基本的にそれは日本文化ともその盛衰とも関わりのないことである。リービ英雄が日本語の作家であることと、アメリカの文化やその盛衰とはなんの関わりもない。


 もちろん、著者の言うように経済や国際政治の場において英語で堂々と渡り合えるだけの人材を養成することは日本にとって重要なことではあろう。英語で日本を論じることのできる人材も必要だろう。しかし、そこではあくまで英語は道具である。日本人がみな英語でしかものを読まなくなるとか、小説も英語でしか書かなくなるとかいうことは、まったく次元の違う話ではないだろうか。
 なんというか、英語ができる人材なんて、本当にそれが必要だと日本人が思うなら、すぐにでも増えてくるはずだ。英語で日本を論じることのできる人材も同様だ。そこでは英語なんてただの道具にすぎないのだ。それよりも、そういう人材を養成することを重要と思うかどうか、とか、日本人の倫理的な立場についての考え方とか、そういう「ものの見方」こそが、日本人や日本文化にとってはるかに本質的な問題なのだ。例えば、もし日本人が自分たちに対する根も葉もない下品なデマに対する反論を不要と判断するならば、それこそが日本人の思想であり日本語に宿る<叡智>なのであって、そのことは、いかに迂遠な経路をたどるにしても必ず他の知的に貪欲な文化圏には伝わって、世界の叡智を増すのである。

 ところで、本書での議論を踏まえた著者の結論はなにか?学校教育が結局は大切だということ、そこでは少数の優れたバイリンガルを養成すると同時に、国語の授業を量、質ともにもっと充実させることが必要だということである。もっともな結論だし、提言だと思う。
 しかし、著者の考え方にはどこかフランス的なところがあるとも思う。今あるかたちの日本語をできるかぎり、そのまま保存したいという保守性を感じる。しかし言葉は生き物である。フランスのように、アカデミ・フランセーズがどのような単語を使うべきか、使うべきでないかにまで口を出すことが、国語にとってプラスに働くとは限らない。日本文学とフランス文学の現状を比較したとき、私には日本文学のそれのほうがずっとましだと思われてならない。そしてその原因は、フランスの言語、文化、思想全般にわたる硬直化、権威主義、新しいものに対する蔑視や嫌悪、西欧の理性、西欧の形而上学はすべてを思考することができる万能の思考方法であるという強硬な思い込み、などにあると思えてならない。著者は日本の現代文学に(少数を除いて)あまり価値を認めないらしいが、たとえ幼稚にみえてもそのような自由な創作の中から次の世代の新しい小説、新しい文化が生まれてくるのではないだろうか。そもそも、明治期の文学にも幼稚なものはないのか?今でも読まれている作品の中でさえも、『蒲団』とか、『金色夜叉』とか、考えようによっては幼稚であったり下劣であったりするものもあるのである。

著者は福田恆存の言葉を引く。「言葉は文化のための道具ではなく、文化そのものであり、私たちの主体そのものなのです。」しかし言葉はやはり、現実に生きている人々の気持ちや思想を表現し、運ぶための道具でもある。「私たちの主体そのもの」が変化していくとき、言葉もやはり変わらずにはいられない。規範性を第一に考えていれば言葉は硬直化し、その潜在能力が開発されつくしたとき、その言葉は死ぬ。

 認識というものはしばしば途方もなく遅れて訪れる。きっかけとなった出来事や、会話、あるいは光景などから、何日、何年――場合によっては何十年もたってから、ようやく人の心を訪れる。人には、知らないうちに植えつけられた思いこみというものがあり、それが、<真理>を見るのを阻むからである。人は思いこみによって考えるのを停止する。たとえ<真理>を垣間見る機会を与えられても、思いこみによって見えない。しかもなかなかその思いこみを捨てられない。<真理>というものは、時が熟し、その思いこみをようやく捨てることができたとき、はじめてその姿――<真理>のみがもちうる、単純で、無理も矛盾もない、美しくもあれば冷酷でもある、その姿を現すのである。そして、そのとき人は、自分がほんとうは常にその<真理>を知っていたことさえも知るのである。

 実に美しい「哲学的」な文章であるが、しかし身も蓋もない茶々を入れさせてもらえるなら、そうしてやっと姿を現したと思った<真理>というものが、これまたやっぱり知らないうちに植えつけられた思いこみであった、ということはよくあることではないのか。思いこみというものには時が経つにつれて晴れていくものもあれば、時が経つにつれてより深くなるものもある。<真理>とはやはり人と人との間、言語と言語との間、文化と文化の間にあるものだ。魚だって二つの潮がぶつかりあう場所で最もよく獲れる。その意味でも、日本の作家が必ず英語で書かねばならないという必然性は、どこにもないのである。


 最後に、著者の日本文学に対する評価にたいし、やはりどうしても一言二言いわせてほしい。

日本の小説は、西洋の小説とちがい、小説内で自己完結した小宇宙を構築するのには長けておらず、いわゆる西洋の小説の長さをした作品で傑作と呼べるものの数は多くはない。だが、短編はもとより、この小説のあの部分、あの小説のこの部分、あの随筆、さらにはあの自伝と、当時の日本の<現実>が匂い立つと同時に日本語を通してのみ見える<真実>がちりばめられた文章が、きら星のごとく溢れている。

しかし、著者もその名を出している有島武郎の代表作である『或る女』は、著者にとっては果たして「小説内で自己完結した小宇宙を構築」した、「いわゆる西洋の小説の長さをした」「傑作」ではないのだろうか。これまた著者が傑作として触れている幸田文の『流れる』は「小説内で自己完結した小宇宙を構築」してはいないのか。
林芙美子の『放浪記』は自伝的小説であるが、同じ時代に書かれたやはり自伝的小説であるヘンリー・ミラーの『北回帰線』に比べてどうなのか。(長さについても、文庫本のページ数はほぼ同じである。)
さらに現代にまで比較を広げるなら、桐野夏生村上春樹大江健三郎と、スティーブン・キングポール・オースタージョン・アーヴィングを比べたとき、「日本の小説は、西洋の小説とちがい、小説内で自己完結した小宇宙を構築するのには長けて」いないなどと言えるだろうか。

私が著者に感じるのは、広く評価されているものだけを追認し評価するという、権威主義的、文学全集的なものの見方である。ひょっとすると、著者の日本文学に対する見方は大正十五年に発行されたという著者お気に入りの改造社の『現代日本文学全集』に完全に規定されてしまっているのではなかろうか。林芙美子を挙げているのに『放浪記』には触れず、「『風琴と魚の町』という優れた自伝に加えていくつかの優れた短編を遺した」と書いて澄ましているのも、この『現代日本文学全集』に入っていなかったからかもしれない。著者の日本文学についての好みや基礎知識はこの大正十五年の段階で止まっているのではないかとさえ疑いたくなってくる。

さらに現代日本文学について。

 日本に帰り、日本語で小説を書きたいと思うようになってから、あるイメージがぼんやりと形をとるようになった。それは、日本に帰れば、雄々しく天をつく木が何本もそびえ立つ深い林があり、自分はその雄々しく天をつく木のどこかの根っこの方で、ひっそり小さく書いているというイメージである。福沢諭吉二葉亭四迷夏目漱石森鴎外幸田露伴谷崎潤一郎等々、偉そうな男の人たち――図抜けた頭脳と勉強量、さらに人一倍のユーモアとをもちあわせた、偉そうな男の人たちが周りにたくさんおり、自分はかれらの陰で、女子供にふさわしいつまらないことをちょこちょこと書いていればよいと思っていたのである。男女同権時代の落とし子としてはなんとも情けないイメージだが、自分には多くを望まず、男の人には多くを望んで当然だと思っていた。また、古い本ばかり読んでいたので、とっくに死んでしまった偉そうな男の人しか頭に思い浮かばなかった。日本に帰って、いざ書き始め、ふとあたりを見回せば、雄々しく天をつく木がそびえ立つような深い林はなかった。木らしきものがいくつか見えなくもないが、ほとんどは平たい光景が一面に広がっているだけであった。「荒れ果てた」などという詩的な表現はまったくふさわしくない、遊園地のように、すべてが小さくて騒々しい、ひたすら幼稚な光景であった。

「偉そうな男」、「雄々しく天をつく木」という表現が同じ段落の中で三回。まるで「精神分析してください」とでも言わんばかりだ。本著の一見論理的な装いとは裏腹に、その底に潜むコンプレックスが透けて見えてきそうな文章である。
結局のところ、著者の象徴体系では、明治期の文豪=偉そうな男の人たち=雄々しく天をつく木=父権=アメリカ(英語)、ということではいのか。なんのことはない、小泉純一郎はじめ、あまたの「保守」政治家にみられる、凡庸な、あまりに凡庸な、父権制アメリカ・コンプレックスの組み合わせである。

女性にとっての初恋というもの 〜パーマネント野ばら〜

シネセゾン渋谷で『パーマネント野ばら』を観てきた。すばらしい名作だと思う。原作は西原理恵子、監督は吉田大八。泣いた。電車の中で映画のシーンを思い出し、また泣いた。


★以下、ネタばれ注意です。この映画を観ようと思っている方は、まず映画を観てくださいね。


女性が初めて恋をした相手の男というものは、いつまでも記憶に残るものなのだろうか?

人の強い思いが現実を歪ませる……それがキム・ギドクの映画を思わせる。ただギドク作品では人はその強い願いをかなえるために現実を捻じ曲げるのに対し、この『野ばら』では、もっと日本的と言おうか、幽玄な、亡びの方へと向かった思いである。現実を「変える」のではなく、現実に背を向け、あるは切り捨てて、自分の中にある狂おしくも愛おしい思いとともに心中するために現実が歪まされるのだ。

もしもなおこが孤独であったなら、彼女は一人でその歪みを味わい広げながら自分の内部で爛熟させて、やがて決定的に現実から離れていってしまったかもしれない。波打ち際で、恋人である高校教押野カシマがなおこに語る。
「そろそろ、一緒に暮さないか……あんた、ほっとくとどっかに行っちゃいそうだからな」
この言葉が含む、もう一つの恐るべき意味。

しかしこの映画の救いは、なおこが一人ではなかったということだ。まず、みちゃん、ともちゃんなどの友人たち。彼女たちはみながみな、それぞれ真似のできないやり方で度を外れた人々であり、「狂って」いるのだが、その狂気はこの十年一日のような海沿いの町に住む人々によって肯定されやさしく受け止められているので、その「状況」から狂気だけが「病い」として切り離され、独り歩きした揚句に病院に閉じ込められるということは起こらない。

そして最後の最後で、娘に呼ばれて我に返ったなおこが娘に見せるあの微笑。友人たちと、娘という蝶つがいによって、なおこはかろうじで現実とつながり続け、やがてそこへ戻ってくることが暗示される。

ストーリーだけでなく映画としても素晴らしかった。押さえられた色調、喜劇場面での原色。そして感情のうねりにあわせて開放される波打ち際の映像のあの奥行き。
もちろん、繊細な恋に生きる女性を演じた菅野美穂なしにはこの映画は成り立たなかっただろう。
それから、ことの結末をまず示し、そのあとにそこへ至った経緯を映し出すという手法。要するに近い過去へのフラッシュバックなのだが、スタイル化され繰り返されるそれは複雑なことを行いながら映画を明晰にとどめ、そしてそれが最後の場面のフラッシュバック、遠い過去へとさかのぼるそれへとつながり、つよく心を揺さぶるのだ。

開かれた日本とその未来 〜銃・病原菌・鉄〜

ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』〈上・下〉を読みました。実に興味深く盛りだくさんな本です。

冒頭で著者は一つの問題を提起する。地球上のある地域の人びと(例えばニューギニアの)が他の場所から来た人びと(例えばヨーロッパからの)に植民地化され、支配されたのはなぜか?どうしてその逆ではなかったのか?
本書の全体はこの質問への答えになっている。その答えを大雑把にまとめると次のようになる。つまり、肥沃三日月地帯や中国を抱えるユーラシア大陸は、栽培可能な植物、家畜化可能な動物の品種に恵まれていた。そのため多くの人口を抱える定住社会が早くから発達した。またその東西に長く伸びる形状から、同じぐらいの緯度にある他の社会から、文字を含むさまざまな発明を取り入れることができた。人口の密集と家畜は疫病をはびこらせることにもなったが、それがまた他大陸の征服のために役立った……。

それでは、中国文明の場合はどうなのだろうか。中国は鋳鉄、磁針、火薬、製紙技術、印刷術においてかつて世界をリードしていた。それなのに、なぜその後になってヨーロッパに遅れを取り、植民地にされかかったのだろうか。
 エピローグにおいて著者はこの問題にもばっちり答えている(P308)。

十五世紀初頭には、大船団をインド洋の先のアフリカ大陸東岸にまで送り出していた(鄭和の南海遠征)。数百隻で編成されたこの船団には船体が四〇〇フィートに達する船もふくまれていた。乗組員の総数は二万八〇〇〇人にも達した。彼らは、たった三隻のコロンブスの船団が大西洋を渡ってアメリカの東岸に到着する何十年も前に、インド洋を越えてアフリカ大陸にまで達していたのである。では、なぜ中国人は、アフリカ大陸の最南端を西にまわってヨーロッパまで行かなかったのだろうか。
(中略)
 これらの謎を解く鍵は、船団の派遣の中止にある。この船団は、西暦一四〇五年から一四三三年にかけて七回にわたって派遣されたが、その後は中国宮廷内の権力闘争の影響を受けて中止されてしまった。(中略)中国は国全体が政治的に統一されていたという点でそれらの国々とは異なっていた。政治的に統一されていたために、ただ一つの決定によって、中国全土で船団の派遣が中止されたのである。ただ一度の一時的な決定のために中国全土から造船所が姿を消し、その決定の愚かさも検証できなくなってしまった。造船所を新たに建設するための場所さえも永久に失われてしまったのだった。

中国とは対照的だったのが、大航海時代がはじまった頃のヨーロッパだった。当時のヨーロッパは政治的に統一されていなかった。イタリア生まれのクリストファー・コロンブスが最初に仕えたのはフランスのアンジュー公である。(中略)コロンブスは三人の君主に断られ、四番目に仕えた君主によって願いがかなえられたのである。もしもヨーロッパ全土が最初の三人の君主のうちの一人によって統一支配されていたら、ヨーロッパ人によるアメリカの植民地化はなかったかもしれない。

 このように、ヨーロッパと中国はきわだった対照を見せている。中国の宮廷が禁じたのは海外への大航海だけではなかった。例えば、水力紡績機の開発も禁じて、十四世紀にはじまりかけた産業革命を後退させている。世界の先端を行っていた時計技術を事実上葬り去っている。中国は十五世紀末以降、あらゆる機械や技術から手を引いてしまっているのだ。政治的な統一の悪しき影響は、一九六〇年代から七〇年代にかけての文化大革命においても噴出している。現代中国においても、ほんの一握りの指導者の決定によって国じゅうの学校が五年間も閉鎖されたのである。

 実はこの中国の「統一」という特徴については、もっと前の部分でも触れられていた(P186)。

中国では、北部で起こった周王朝を手本に、紀元前の一〇〇〇年間に国家統一がなされ、紀元前二一一年に秦王朝が誕生している。(中略)この文化的統一は、ときには乱暴な政策が実施された結果でもあった。たとえば秦の始皇帝は、秦王朝が登場する以前の歴史書をことごとく無価値と決めつけ、すべて燃やすよう命令している。この焚書はわれわれが初期の中国の歴史や文字システムを理解するうえで大きな損失となっている。

 中国には強力な中央集権の伝統がある。現代でも党や国家の中枢部が強力な指導力を発揮して歴史の解釈や考え方までを公式に規定し、必要だとなれば、例えば一九六〇年代に制定された簡字体のように、常用漢字に一字を入れる入れないで大騒ぎする日本では考えられないような政策も果敢に採用し、やり遂げてしまう。日本もすこしは見習えばよいのにと思うこともしばしばだが、こうしてみると強力なリーダーシップというのも良し悪しなのだろうか(しかし日本はひどすぎると思う)。

 話が変わるが、思うに現代の日本人は、いまある良いものを一つも損なうことなく慎重に事を進めようとしすぎるきらいがあるのではないか。私はそれが日本のいい点だと思っているが、反面、ようするにそれは老人の思想であって、そのまま国ごと美しく滅びるのをよしとするならともかく、生き延びるためにはいつまでも慎重第一とも言っていられない。

本書を読んでいても印象的なのは、長い時間の流れの中で滅びていく事物の多さだ。人間に狩られて絶滅し、わずかに土の中の骨としてその痕跡をとどめる動物たち、滅びてあとかたも消えうせた言語、他から移動してきた民族に攻められて絶滅・同化されてしまった民族……。こういうことを言うと、またアングロ・サクソン風の生存競争イデオロギーかと思う人がいるかもしれないが、しかし生存競争はイデオロギーではなく事実だ。自分たちだけが知っている、緻密で完成された、美しい世界があったとして、それにどんなに高い価値があると自分たちだけで思っていたとしても、そこに閉じこもっているばかりで世界に向けて開こうとせず、地球規模でのつながりを失っていくとしたら、それは滅びる。それも、あっという間に滅びてしまうのだ。

日本はさらに国を開いて世界規模でのつながりをふやしていく必要があると思う。そうやってショックを与え、新陳代謝をそくし、感じる力、考える力、行動する力を刺激する必要がある。もっと英語に堪能になることも必要だろう。
その場合、もっとも手っ取り早い方法は移民を世界中から、十万人、百万人の規模で受け入れることだろう。そうして、日本にやってきた彼らに、日本の文化や社会をわかりやすく説明していく必要がある。もちろん翻訳すれば細かなニュアンスは落ちてしまうだろうが、そんなことをかまっている場合ではないのだ。韓国人がハングルを発明し、中国人が簡字体を導入し、昔の英語が他言語の語彙を取り入れ文法を簡素化したように、日本語から平明に作り変えていく、ぐらいの意気込みが必要だと思う。

あるいは逆に、日本人が移民となって世界中に散らばることで生き残るという手もある。もちろんそこで日本語や日本文化は変質し、また色々な部分は欠けて失われ、また異文化の中で薄まり、吸収同化されてしまうかもしれないが、それもまた「生き残る」ことの一つの形ではないだろうか。もともと、言葉も文化も変化していくものだ。この列島にしがみついたまま若い世代がその可能性を試すこともなく朽ちていくよりも、広い世界、新しい環境で生命力を得て活動するほうがどれほどマシだろうか。

現在のまま相対的な鎖国を永遠に続けるのでない限り、いつか日本は移民を受け入れ、また自ら移民となることを通して世界に広がることになるだろう。そのとき日本国は単なるインフラ、プラットホームとなる。誰でも望めば日本国籍を得られ、また二重国籍も取れるようになる。日本国籍は、現在の血統証明書のようなものではなく、住民票のような、単にサービスを受けるために必要な手続となるだろう。日本の持つよいところは世界中に拡散して取り入れられ、逆に日本人もまた世界中からよいものを取り入れてハイブリッドな文化を育めばいい。

そして、やがては日本人というものも世界の人類の中に拡散してなくなるだろう。が、考えてみれば、人間というものはみな死ぬまでの時間を使い、言葉や行動、あるいは遺伝子という形で周囲の環境に自分の印を刻み込み、そうして自分は死んでいくものなのだ。日本という国もそうなるだろう。それに、そのとき日本人は秦の始皇帝のようにそれまでの自分たちの過去すべてを否定し破壊する必要はないのだ。かつての日本文化や文明は、電子化された形にできるものは保存され、世界各地のサーバーの中に生き続け、遠い未来の人類を触発する機会を待ち続けることになるだろう。

日本の政治状況をめぐる仮説w

日本ではせっかく政権交代したというのに、どうしてこうも政治がぱっとしないのでしょうねえ。かのアメリカでは、オバマ大統領が大喧嘩をした末に医療改革法案を通し、核安保サミットを開催し、のびのびと自分の政治をしているというのに。日本の政治家はどうして政権を取ると、公約をごまかすこと以外には何も仕事をしていないようにしか見えないのだろうか?

「それは日本の政治家が無能だからだ」という説明は聞き飽きた。だからここでは別の可能性を探ってみたい。政治家の無能力という説明のほかに、思い当たることはなかったろうか?

仮説その1:日本の政権を取り巻く環境には、政治家にその能力を発揮させず、阿片のように認識をくもらせるオーラがある。それは官僚からのさまざまな圧力であり、また官庁を含めた政府システムの不備・欠陥であり、マスコミや国民をも含めた、政治家を神経衰弱に追い込む全体的な雰囲気である。最近すっかり自信を失った日本人は何も一人で責任が取れない、したがって決断や実行もできないという、歪んだ精神構造になってしまっているのだ。

仮説その2:日本はアメリカとは違い、自分の力で運命を切り開いていける範囲が限られているので、自然、政治における選択肢も少なくなる。日本は今にっちもさっちもいかない状況にいるのであって、どの政党が政権につき誰が総理大臣になろうが、できることは限られている。

仮説その3:代々の政権は、実はうまくやってる。案件は着実に片付いていっているし、国民には不満だったり中途半端に見える決着も、実はそれがベストの選択なのである。子供手当ての結果として富裕層が一番多く恩恵をこうむったり、高速道路の料金が多くの場合で逆に値上げになったり、国の借金が増えたり、郵便貯金の限度額が引き上げられたりしたのも、はるかに多くの情報に触れることのできる政治家と役人たちの深慮遠謀の結果なのである。ただ、判断の根拠や、その深慮遠謀とやらをどうして国民に説明しようとしないのかは謎である。
オバマがのびのびとやりたい政治をやっている、などと見えるのは、ニュースに映るアメリカ人政治家たちの自信たっぷりな態度を見てそう思い込まされているだけなのであって、実は日本とそんなに政治の実情(酷さ)は変わらない、いや、多くの場合、日本の方がマシとさえ言えるのだ。

仮説その4:政治活動といえば投票ぐらいしかしないくせに政治家が自分に何かよいことをしてくれるなどと期待する人は、政治というものを誤解している。政治というものは金や利権の分捕り合戦なのであって、そこではヤクザ的な意味で力のあるもの、声の大きいもの、ようするに「有力者」が得をするに決まっているのだ。ルールを守っていれば政治家がみなに平等に利権や金を配分してくれるなどと期待するのは甘すぎる。投票なんてヤクザだってやるが、そんなものは組長のひと声で翻るのだ。有体に言えば、投票などというものは国民に民主主義の幻想を抱かせるためのトリックに過ぎない。
政治家が自分たちと同じ姿勢の人々、同じ人種だと思うから理解ができず不思議に思えてくるのであって、最初からヤクザと同等の、自分たちの利権や金の確保のために全能力を傾け、智謀を凝らし、言葉でも態度でもウソをつき、それをマスコミや国民になんと非難されようが、そんなことには何の興味も抱かない人々なのだと考えれば、すべてつじつまがあうのだ。現在の政党も実は富裕層の利益を代表しているのであり、だからあのような子供手当てになるし、郵政改革になるのだ。
だからこそ投票以外の政治活動が絶対に必要で、それをしない限り、誰も好き好んで何の得にもならない労働者やサラリーマンや女性のための施政などおこなわないのだ。ある集団が別の集団に、自分の利益を削ってまで便宜を図るのは、それによって別の利益が得られるときか、あるいは力によって強制されたときだけなのだ。行動あるのみ!アクションあるのみ!

仮説その5:この世は幻、万物はみな無である。政治もまた幻であり、ありもしない活動の影にすぎない。手持ちの金が、年に数万円ほど増減したところで、それがあなたの日常にどれほどの関わりがあるというのか?餓鬼のように幻を追い、不安に駆られて他人の欲を追うのをやめて、自分の内面を見つめよ。あなたとテレビに映る政治家たちとは何の縁もなく、つながりもない。選挙により市民の義務を果たし、全国民とつながる、などという迷妄に満ちた幻想を捨てよ。