凄まじいコントラストの小説 〜ボヴァリー夫人〜

一ヶ月かけてフロベールの『ボヴァリー夫人』をようやく読み終わりました。十年以上前に一度読んでいるので今回は再読なのですが、おぼろげに記憶していた物語とは全く違っていました。そして、前回読んだ時にはこの小説のすばらしさ、そして怖さをまったく理解していなかったように思います。「凡庸」な趣味を追い求めるミーハーで馬鹿な女が浮気に憧れて自滅する話、という私の以前の理解は、間違いというわけではないけれどピント外れの皮相な理解と言わざるを得ません。

はっきりいってすごい小説です。凄まじく残酷で、そしてはかない美しさを持つ小説です。素晴らしい、というのはちょっと言葉がちがう気がするが、紛うことなく傑作。夢と現実の相克を描いているとはよく言われますが、人間の最も美しい部分と最も卑しい部分、繊細さと無神経さ、無邪気な夢と金がすべての冷たい現実などが、いずれも最高の純度で描かれていて、その光と影のコントラストの高さはただごとではありません。

たとえば十二章のこの部分。何度読んでも泣けてしまう。

主人公のエンマは医者のシャルルと結婚し、ベルトという娘もいて、一見すれば何不自由ない生活をしている。ところがエンマは精神的に満たされず、ロドルフと浮気をしている。鈍感なシャルルはそのことにまったく気づかない。それどころか、ロドルフとの駆け落ちを夢見るエンマをシャルルは「結婚当時のようにみずみずしく、たまらないほど美しく」思うわけです。

シャルルは夜中に帰ってきたとき、彼女を起こす勇気がなかった。磁器製の豆ランプはゆらめく火影をまるく天井に描き、小さい揺籃に引かれたカーテンを見つめた。子供の軽い寝息が聞こえてくるような気がした。子供も近頃はすくすく大きくなってゆく。季節ごとにめきめきと成人するだろう。シャルルはこの子が服にインキをつけ、バスケットを腕にぶらさげて、日暮れごろ、ニコニコ学校から帰ってくるさまを想像した。小学校を出たら塾へ入れねばならぬ。ずいぶん費用がかかるがどうしたらよかろう。彼は思案した。近所に小さな農園を借りて、毎朝往診の途中に自分で指図しようと考えた。農園の収入を節約して郵便貯金にしよう。それから、どれでもよい、株を買おう。それに患者もふえるだろう。シャルルはそれを当てにしていた。というのも、ベルトを立派に育て、女のわざを仕込み、ピアノも習わせたいからのことであった。ああ!この子がやがて十五にもなったら――そして母親似のこの子が、夏がきて、母親と同じ大きなむぎわら帽をかぶったらどんなに可愛いだろう!遠くから見たら、みんなが姉妹と間ちがえるかもしれない。彼は娘が夜、ランプの下、自分たちのそばで仕事するさまを想像した。あの子は自分にスリッパーの刺繍をしてくれるだろう。あの子は家事を切りもりするだろう。あの子はやさしさとほがらかさで家じゅうをいっぱいにしてくれるだろう。それからいよいよ嫁入りのことを考えてやらねばならぬ。地位の安定した実直な男を見つけてやろう。その男は娘を幸福にしてくれるだろう。そしてそれがいつまでもつづくだろう。

あと、今回読んでみていつくかの記述を面白く思いました。何の比喩でもなく、何も暗示していないように思える次のような箇所。例えば八章の共進会のシーンで、消防組の副隊長をしているテュヴァシュ氏の末っ子が「冑の下でまるで子供のようにニヤニヤ笑っていた」という部分、それから十三章の始め、

 家に帰るとロドルフはいきなり机に向かった。それは猟の記念として壁にかかげた鹿の頭のちょうど下であった。

という部分。ほとんどカフカやシュルレアリズムを思わせるこうしたイメージをコラージュする手法をフロベールは半世紀も前に先取りしていたのだった。