彼はイスラム嫌いじゃない。フランス嫌いなんだ。 〜『服従』 その2〜

前回紹介した『服従』について検索していたら、こんな記事をみつけたので抄訳します。

「フランスはウエルベックの『服従』をちゃんと理解しなかった」とアメリカのプレスは推測
(Telerama より。2015/10/22)

この火曜日にウエルベックの『服従』がアメリカで出版された。アメリカの批評家によれば、この「反イスラムというよりも反フランスの」小説がフランスで正しく理解されるまでには時間がかかるだろうと言う。

(中略)

形式やその内容によりも、アメリカのメディアはフランスにおけるこの小説の出版に対する反応に興味をひかれている。「賢い批評家たちがこの本に右翼的なプロパガンダを見出したことに私は驚いている」と、アメリカにおける『服従』の翻訳者でありParis Reviewの編集者である Lorin Steinは言う。「この話は明らかに喜劇であって、主な登場人物はみなバカで良心の咎めも感じない。この本は皮肉で一杯だ。これを戦いへの呼びかけと捉える読者は読み方が偏っていると私は思う。読者について心配し出したら、それはもう文学の終わりだ。」

(中略)

全員一致でアメリカのメディアはウエルベックが反イスラムであるという仮説を否定する。「イスラム主義は『服従』のテーマではない。それはヨーロッパに根強い不安、つまり伝統や権威に逆らってどこまでも自由を追求することが不可避的に大失敗に行き着くという不安を表現するための鍵にすぎない。」と The New York Review of Books のMark Lilla は書いている。「ウエルベックは怒ってなどいない、彼にはこうすべきという計画もないし、Eric Zemmour がやるようにフランスの自殺に責任のある裏切り者を指さして告発するようなこともしない。」New Yorker も同様に、フランスにおけるウエルベックに対するイスラム嫌いという毎度の告発を非難する。「それは正しくない。彼はイスラム嫌いじゃない。フランス嫌いなんだ。彼が描くイスラム政権は優しい。彼はイスラムとの同化主義者たちの優しさや頼りがいのある点を好ましく感じている。」

アメリカのプレスが描く像によれば、ウエルベックは皮肉で怒りのないノスタルジックな人間にすぎない。「風刺というものは、自分たちがいまそこに向かっている狂気と、すでに過ぎ去った、理性的だったと思われている過去との比較から成り立っている。だから Tom Eolfe のように、風刺作家はしばしば懐古趣味の人間なんだ。」とNew Yoker は指摘する。

同様に、フランスにおけるEric Zemmour とウエルベックの比較をしながら、このアメリカの雑誌は、フィガロの元記者(である Eric Zemmour)の「恐ろしい考え」(それはこれら二人の作家に共通するノスタルジーが生みだしたものだが)からウエルベックは無縁であると言っている。つまり、60年代のフランスでド・ゴール主義者が抱いた考えである。「それは、権威はしっかりとしており保護者的で、男は役割を持ち、女はもしそうしたければ家庭にとどまることを選択でき、映画のポスターが二枚あればそのうち一枚にはカトリーヌ・ドヌーブが出ていた時代だった。」The New York Review of Books のMark Lilla によれば、イスラム主義がこの本の主題であるとか、ウエルベックイスラムを恐れているなどと考えるのは間違っている。「彼は心から、フランスは残念ながら、そしてどうしようもなくそのアイデンティティーを失ったが、それは移民やグローバル化のせいではないと考えているようだ。ヨーロッパ人は歴史上の賭けに出た:人間は自由になればなるほど幸福になれる、という仮説への賭けだ。ウエルベックにとって、賭けは負けと出た。ヨーロッパはこうして漂流し、神の名で語る者に服従するという古い誘惑に負けるかもしれないと彼は考えているのだ。」
(以下略)