日本人による西遊記 〜円仁 唐代中国への旅〜 その1

エドウィン O. ライシャワー著『円仁 唐代中国への旅 「入唐求法巡礼行記」の研究』を読んだのでその内容をまとめてみます。

航海は風(と神)まかせ
円仁は日本天台宗を開いた最澄の弟子で、838年に最期の遣唐使の一員として唐に渡った。渡航は第一回(836年)第二回(9837年)、第三回(838年)と三回も試みられ、三回目でようやく唐にたどり着くことができた。

当時の極東の航海技術は陸の見える沿岸を跳び跳びに航海するには十分だったが、日本から直接中国へ渡るのには不足だった。羅針盤はまだ使われておらず、風が順風になるまでは港で待機するのでとても時間がかかった。そして、途中で風向きが変われば、まるで水に浮く木の葉のようにいとも簡単に岸へと吹き返された。

しかも、どうやら当時の日本人は航海に必要な最低限の気象知識すら持っていなかったらしい。通常八月の中旬から十月にかけてやってくる台風を避けようとしていない。

第一回目の渡航の試みでは、四隻からなる船団が出発したのは太陽暦で8月17日だった。

彼らの出発の報せが大宰府から朝廷に達したちょうどその日、第二番目の急使が第一船と第四船が同時に九州西北岸に吹き戻された報せをもたらした。二、三日経って馬を乗り継いだ別の使いが大宰府から都に到着し、第二船も九州の西北の突端に漂着したという悲しい報せを伝えた。さらに続いて、第三船から十六人が、”筏として組み合わされた板”の上に乗っかって、日本と朝鮮の間の海峡にある対馬に打ち上げられたという悲報がもたらされた。続いて、九人が筏に乗って九州西北岸に漂着したと伝えられてきた。最後に、難破した船体そのものが対馬に打ち上げられ、たった三人しか甲板には認められなかったというニュースが入った。

しかし昔の人は我慢強い。こんなことではめげなかった。
早くも836年の秋には船の修理が始められ、あくる年早々から、斎日、歌会など、すべての出発に向けた儀式が再び始まった。太平良(おおのひらら)と名づけられた使節団の第一船は従五位下に叙せられた。
しかし。

使節団は先年よりも早く都を出立したが、またもや彼らは九州出発を遅らせてしまった。七月二十二日、太陽暦に直すと八三七年八月二十六日に、都に悲報が到着した。
というのは、九州の西北の突端を出航した三隻の船のうち、第一船と第四船が九州の北に位置する壱岐島に流され、第二船は五島列島の岸に困難の末やっと辿り着いたという知らせが届いたのである。船団は再び航海を続けるのは困難なほどの損害を受けたので、豊前守に修復が命ぜられ、筑前権守と判官長岑高名の二人がその補佐役に任ぜられた。かくて、中国に渡る第二回目の試みも、第一回と同様、悲しくもほとんど水泡に帰した。

しかし昔の人は我慢強い。こんなことではめげなかった。
聖徳太子の遣隋使から数えてももう二世紀も経ってるのに、もうちょっとどうにかならんかったんやろうかというのは、嵐というのはただ単に統計学的な気象現象であると知っていて、かつトヨタの改善やら最適化やらといった考え方が生活の隅々にまで入り込んでいる現代人だからおもいつく感想なのであって、この時代には神はまさに生きていて、人間はその圧倒的な力でなにかと邪魔をしてくる神々をなんとかなだめすかして自分の望みを通していくしかなかったのである。

二回ともこのような不幸の憂き目をみたので、日本人は当然、神々が彼らに反対しているにちがいないと考えた。そこで彼らは第三回目の渡中の企てのための準備に当たって精神的な努力を二倍に強化した。これまで、皇室は古来の神道の神々にのみ頼っていた。今回はさらに加えて、より一層国際的な力を持った仏教の神々や経典に目を向けたのである。
八三八年春、詔書が発せられ、遣唐使の不幸を引いて、しかし「信は必ず応えられる」という確信が表明された。詔書は、九州の九つの州にそれぞれ二十五歳以上の仏門に投じ経典に通暁し非の打ちどころのない立派な人物を一人ずつ選んで、使節団が中国から無事に帰るまで、仏天に供物を捧げ、宗教的儀式を執行するよう命じた。この九人は九州の四つの最大の神社に配属されることになったが、彼らは各州に一世紀ばかり前に作られた公の仏教寺院(国分寺のこと)や神社に付属して建てられた仏教施設において彼らの礼拝を執り行ったのである。

828年夏、三隻からなる船団は三度目の出航をした。第一船と第四船は今回は早く出航した。円仁は第一船に乗っていたが、彼らが日本の最西端の島影を最後に認めたのは七月十八日だった。第二船は副使の小野篁(おののたかむら)が仮病を使って出発拒否をしたため出発が遅れた。副使は罰を受け、結局中国ではなく人の手によって隠岐の島に流され。

海上のはじめの二晩は二隻の船は互いに烽火(のろし)をあげて確認し合った。それはあたかも、”夜の空の星”のようであったという。しかし、第三日の夜明けまでには、第四船はもはや視界から消えていた。風は東南に変わっていた。しかし、これはなお、順風であった。第一日が暮れると、大使は観音菩薩を画き、円仁と同僚の円載は経を読み祈った。渡海途上、日本人たちは海に浮かぶ竹や葦、行ったり来たり飛び交う鳥のたぐい、さらに海水の色の変化にまで異常な注意を払った。そして、これらの現象から、いくらかでも、彼らがいまどこにいるかということを読み取ろうとしたのである。
第三日、水は淡い緑に変わり、第五日目には白みがかった緑となり、そして翌日から黄色い泥の色となった。彼らは、これが有名な揚子江から出た水であろうと推測した。

こうして、ようやく円仁たちは中国の地に足を踏み入れた。