日本人による西遊記 〜円仁 唐代中国への旅〜 その2

友人たち

大使たち総勢二百七十人からなる遣唐使節の本体は十二月三日、長安に到着した。円仁は揚州で天台山へ行く許可を待っていたが、いつまでたっても許可は得られなかった。やがて大使たちは長安から帰ってきて、帰国に向けて移動を始めたが、円仁はたとえ公の許可が得られなくても唐にとどまることを決心する。

彼は山東半島の突端に位置する赤山院という僧院にとどまり、日本へと向かう船団と分かれた。するとまもなく近くの県庁から訊問の文章を携えた官吏が到着した。

県庁は青寧郷に告げる
我々は竇文至のグループの頭から約三人の日本人が日本船から置き去りにされたという報告を受けた。この事件のいきさつを伝える文章はこれをグループの頭から受け、それには船は今月十五日に出立し、置き去りにされた三人は赤山朝鮮僧院に発見されたと記されている。この報告は以上のとおりである。
件の人物について我々の調査を推し進めるに当たっては、彼らが船から置き去りにされたとき、村の保安要員とグループの頭はすぐその日に我々にそのことを告げるべきであった。何故に十五日も経過してから我々に告げたのか?さらに、我々は逃亡者の姓も名前も知らされていないのである。彼らがどのような荷物を所持するのか、どのような衣装を着ているのかも不明である。また、僧院行政官および赤山僧院の監督の僧侶たちが、そこに外国人をかくまっているということを調べたかどうかについて貴下の情報はなんら提示していない。部落の長老たちは、ここにおいて事件を調査するよう要請される。この命令書が貴下に到着した日、ただちに事態を詳細に報告せよ。万一、貴下の調査に辻褄の合わぬ点があったり、虚偽の申告があったならば、貴下は召集され責任を問われるであろう。もしも調査に関する貴下の具体的報告が時間の制限を無視することがあったり、調査が不十分であったならば、該調査者は最も重く罰せられるであろう。

この訊問は直接円仁たち一行に宛てられたものではなかったが、円仁は自ら弁明の手紙を書き、僧院に託した。これを始まりに円仁は中国の各地方、各部署の役人たちと行政手続きのための膨大な文章を交わし、五台山へ、さらには長安への通行証を手に入れる。そのときに役に立ったのが、円仁が日記に書き写したそれらの役所からの文章と、それに対する自分からの返答、あるいは請願書だった。そして、その時代にはありふれていたであろうこうした行政文章のフォーマットは、中国の正史に書かれるような内容ではないため、後の歴史研究家にとっても貴重な資料となったのである。
山東半島で円仁たちを大いに助けたのはそこにすむ朝鮮人たちだった。赤山僧院は朝鮮人の僧たちによって運営されていて、円仁を最初かくまった。また、その後県庁との折衝を助けたのは張詠(チャング ヨング)というこの地方の朝鮮人の長であった。

おそらく彼を通して円仁は最初の場所に上陸してとどまることができたのであり、また張の助けによって日本人たちは去っていった遣唐使節団からの逃亡者としてではなく、その地方の公認の外国人居住者であるという、より一層安全な外装を施されて、政府当事者に近づくことができたのである。

円仁はいったいどんな人だったのだろうか。思春期をとうに過ぎた円仁は当然ながら自らの性格について日記にくどくどと書くことはなかった。しかし日記は円仁その人についても多くを教えてくれる。まず彼はとても順応性の高い人だったらしい。唐の行政官僚組織を相手に、抜け目なく、しかし物怖じしたり卑屈になることもなく、堂々と渡り合って目的を達成している。
さらに、彼は旅に必要な金銭を行政機関からの給付や人々からの布施をやりくりしてまかなっていかねばならなかった。もちろん、帰国する遣唐使の本体と分かれるときに円仁は大使から滞在資金を受け取っている。また、その後も日本の朝廷は何度か円仁たちに資金を送ろうとしたが、これはうまくいかなかった。しかも彼の支出は日本の朝廷から支給された額よりはるかに大きかった。自分と二人の弟子たちの生活費の他に、長安で仏教の指導をうけた教師への授業料、弟子たちのための座具や袈裟の仕立て料、それに両部曼荼羅を写させる料金などが日記には記されている。

いずれにもせよ、円仁にとって最大の支出はこれらの絵画等によって構成され、彼の心に重くのしかかっていたことは確かであるということができる。彼が王恵と値段の交渉をしているとき、二度ほどこれらの価格を支払うに足る十分な資金をパトロンたちが贈ってくれた夢を見た。そして、彼の師、義真の在俗の弟子が金剛界曼荼羅のために絹四十六フィートを与えたとき、彼は義真に礼状を書いて「感謝に感極まった」といっている。

彼は長安でも地方でも、パトロンや支持者、支援者を得ることができた。これはもちろん、仏教にたいする尊敬が社会の中に息づいていて僧である円仁を助けたということもあるだろうが、それだけではないように思う。やはり彼のしっかりとしたコミュニケーションの能力、手紙などから読み取れる率直な態度、あるいはその他の想像してみるしかない人間としての魅力が、多くの支援者の心を捉えたのだと思う。
また、長旅を生き抜いた円仁は体も丈夫であったに違いない。遣唐使として同時に海を渡った副使の代理は渡海後に死亡し、二人いた円仁の弟子のうちの一人もまた長安で亡くなっている。
国宝になっている一乗寺の円仁像を見ると、丸顔で、眉毛が太く、ふくよかな顔つきに画かれている。
しかし、円仁もときには日記の中で辛辣な批判をしている。唐代中国の官用旅行者は、正当な通行証を持っていれば、道中無料で糧食、宿泊、運送の便を支給されることを期待できた。旅のはじめ、まだ山東を旅行しているころ、円仁は地方の長官の発行する通行証を持参していたということと、その僧という立場から、旅館では無料のもてなしを受けることを期待していて、それが裏切られたときには激しく怒りをぶつけている。
「我々の(旅館の)主人は荒々しく不愉快な人物で礼儀をわきまえなかった。我々は主人に野菜、醤油、酢、塩を求めたが、何一つ得られなかった。ついに、我々は、茶一ポンドを払って醤油と野菜を買い求めたが、食するのに十分ではなかった」「彼は極端にケチケチしていて、我々に一つまみの塩も一匙の醤油も酢も、無料では恵んでくれなかった」「彼は貪欲で客人を泊めて料金を取り立てた」「我々の主人は大層ケチで野菜の一つまみすら何回も要求しなければ、我々にそれを供してくれなかった」などなど。反対に「我々の主人はきわめて鄭重で我々の正午の食事のために惜しまず野菜を〔提供して〕くれた」というときは、彼らは喜んで迎えられ、無料で接待されたらしい。
仏教弾圧が始まり、円仁たちが追放されて長安から東へと旅行しつつあったときは、円仁は「都からの我々の文章は我々のための途中の支給についてはなんら触れることがないので、我々自身の旅の食糧を持参しなければならなかった」と説明している。また、円仁はべん河を下るためのボートも自費で傭わなければならなかった。円仁は書いている。「べん州からの川岸の人々は心が邪悪でよくない。彼らが飲むべん河の水のように、速くそして濁っている」どうも特に金銭を要求されるときに激しくぐちっているようにも見えるが、外国人の、しかも金銭の持ち合わせもそうはなく、その場その場の人々の好意だけを頼りに生き延びていかねばならない身としては、出費を見ることは心細いことだったろう。自分や弟子たちも含めて身の安全をはかり、あるいは経典や曼荼羅などを日本まで持って帰らなくてはならない責任の重圧下ではなおさらである。僧に対しては一般人も官吏も親切な人が多かっただけに、そうでない人に対しては敵意が湧いたのだろう。
興味深いのは円仁の禅僧に対する感想である。とある町で遭遇した禅僧の一団について円仁は「極端に心が気ままな人種」と描写している。これは大華厳寺の僧であった志遠の次のような描写と好対照をなしている。「彼は施しを受けず、日に一度しか食事しない。彼の戒律の実践は浄らかで高貴である。彼はただの一度も昼夜六時の礼拝と懺悔を欠かしたことがない」
(つづく)