家族という部族 〜心臓を貫かれて〜

マイケル・ギルモア著、村上春樹訳『心臓を貫かれて』を読みました。アメリカのある異常な、しかし同時に象徴的でもある家族を描いた驚くべきノンフィクションです。

二人の人間を殺して死刑になったゲイリー・ギルモアという人物がいる。その歳の離れた弟である著者は、ゲイリーという犯罪者を生んだギルモア一家の歴史を両親の生い立ちから初めて丹念にたどっていく。そして、ゲイリーの犯罪とその死刑がいかに他の兄弟や自分に影響を与えたかを語る。

その家族の想像を絶する物語をここに要約することなどとてもできないので、それは本書を読んでいただくことにして、ここではちょっと前に話題になった『ハーバード白熱教室』という番組をみていて心に引っかかった点との関連について述べてみたい。

あの番組の中で多くのアメリカ人が特つ意見に特に違和感を感じた部分が二つある。一つは犯罪を犯した兄弟を「売る」かどうかという質問をした部分だ。売らないという意見が多く出た。日本でこの授業の続編(『ハーバード白熱教室@東京大学』としてやはりNHKで放映された)をやったときには、警察に通報するという意見がほとんどだったように思う。

この点について、本書のモルモン教についてのくだりを引用したい。著者やゲイリーたちの母親であるベッシー・ギルモアは厳格なモルモン教徒の家で育てられ、著者もまた若いころ母親に影響されモルモン教徒として活動していたことがあったのだ。

 ベッシー・ギルモアが自分の身内と生まれた土地を罰することを望んだ理由を説明するためには、彼女の育った家族と歴史について少し語っておかなくてはならない。母は今世紀の初めにモルモン教ユタ州に生まれた。ユタ州は多くの点で、まわりを取り囲むほかのアメリカとは性格を異にした土地だ。モルモン教徒たちは長いあいだ、自分たちの異種性と結束力を強く鮮明に意識してきた。現代における神の選良と自負していただけではなく、自分たちの信仰とアイデンティティーは長い血塗られた歴史と、厳しい流離によって鍛え上げられてきたと考えていた。彼らは弧絶した人々であり、自分たちだけの神話と目標を持つ人々であり、すさまじいまでの暴力の歴史を背負った人々だった。
 母は子供のころにモルモン教徒たちの伝説を――その奇跡や迫害の物語を――山ほど聞かされていた。そして同じ話を、今度は自分が、小さいころの僕や僕の兄に話して聞かせた。多くはモルモン教がその創成期をいかにして闘い生き延びてきたかについての話であり、とりわけモルモン教創始者である殉教者ジョゼフ・スミス・ジュニアについての身の毛のよだつ話だった。スミスは見事なイマジネーションとヴィジョンを持ち合わせた人物であり――実際にアメリカの歴史においても有数の、創意に満ちた神話の作り手であった――自らのきわめて個人的なオブセッションを、ひとつの入り組んだ、神学とフォークロアの勇壮な混合物に転換することに成功した。スミスはもともとは血筋という業を土台として、その上にすっぽりと載せるようなかたちで、彼の複雑な神学を構築したのである。「自分が継承した夢と負債から、人はいかにして救済され得るか。さもなければ、終わってはいない呪いのために、人は滅ぼされてしまうことになる」というのがその論理だった。この命題がほかならぬ僕の一家に届けられたとき、それは致命的な結果をもたらすことになった。
 スミスのもっとも有名な著作はいうまでもなく『モルモン書』である。一八二〇年代の初めに初めて出版されたこの書は、同じ時代にアメリカ人の手によって書かれた宗教的テキストや小説の中では、今でも輝かしさを保っている数少ない例のひとつである。そしてそれは百六十年以上の歳月にわたって、モルモン教――現代においてもっとも急速な発展を遂げた宗教のひとつ――を確立するための中心的なファクターとなった。『モルモン書』の起源は魅惑的ではあるけれど、その分、議論の的になっている。スミスの言によれば、それは神に遣わされたモロナイという名の天使が彼に示した一揃いの古代の金版から書き写されたものである。金版には古代のアメリカに住んでいた人々の歴史と、彼らとイスラエルの神との関わりが記されていた。要するにスミスは、長いあいだ失われていた旧約聖書新約聖書との聖なる結合を見いだしたと主張していたわけである。
 『モルモン書』は多くのアメリカ人の心に大きな衝撃を与えたし、今もなお与えている。その中心的な魅力を読みとるのは、べつにむずかしいことではない。聖書から借用してきたうわべの部分を『モルモン書』から全部取り払ってしまえば、あとに残るものはアメリカ人の大好きなふたつの題材――家庭と殺人――を扱った活劇以外の何物でもないのだ。
 ジェームス王による聖書の英訳の向こうを張る文体で書かれた――あるいは少なくとも記述者たちに向かってスミスが語った――『モルモン書』には、リーハイという信仰篤い預言者に率いられたユダヤの一族の一千年にわたる年代記が記されている。リーハイは紀元前六〇〇年に親族と友人たちを連れて腐敗しきったエルサレムの町を脱出した。神の導きのもとにリーハイと息子たちは一隻の船を建造し、新しい世界へと向けて船出した。そしてその土地でリーハイは、人生の最大の目的は――救済にいたる唯一の道は――神の法に従うことを通して神の愛を勝ち取ることであると説いた。しかしリーハイ一族の中にはつねに対立があった。年老いた預言者は死ぬときに、年下の息子のニーファイを自分のあとを継ぐ家長兼預言者に指名したのだが、その決定は年長の二人の息子(レーマンとレムエル)に苦い思いをさせた。レーマンとレムエルは父親の継承者指名に対して怒りを募らせただけではなく、ニーファイと旧世界の信仰の対象に対しての怒りをも募らせた。身の危険を感じたニーファイは、自分の一族を引き連れて兄たちの領地から出ていくことを余儀なくされた。神はレーマンとレムエルの謀反に激怒し、また高慢と血に飢えた性向を怒り、彼らに赤い肌の呪いをかけた。汝らの子孫は一人残らず、父親たちの犯した罪を償うためにその汚れた肌をいつまでも担い、神の不興を身に感じ続けるべしと宣言した。このようにしてニーファイ派とレーマン派の分裂が生じ、この分裂は『モルモン書』の中心的な歴史力学を形成することになった。
 それから千年のあいだ、ふたつの部族の子孫たちはほとんど間断なく戦争を繰り返してきた。一方の側は正しい血を受け継ぐものとしての代価を支払い、もう一方の側は彼らの悪しき祖先たちから引き継いだ不服従と殺人の血筋をなぞって生きることを運命づけられていた。あとになって(それがこの書物のもっともあっと驚く部分なのだが)、イエス・キリストが――十字架にかけられ、復活をとげたあとに――これらの人々のもとを訪れ、救済の教義と平和の助言を与えることになる。でも平和は長くは続かない。暴力が戻ってきて、殺戮が地表を覆う。『モルモン書』の結末には、一人の男の声だけが残る。ニーファイ側の最後の生き残りであるモロナイの声だ。彼は死んでしまった自分たちの同族たちの歴史と、彼らの最後の戦闘について思いを巡らせる。戦闘はデソレーション(廃墟)と呼ばれる都市で開始されたものだった。戦闘が終わったときニーファイ側の死体は、血に染まり死に瀕した国の光景の中に幾万と山をなしていた。生き延びた一握りの子供たちは彼らの父親の肉を食べることを余儀なくされた。そしてモロナイは、もとを正せば同胞であるレーマン派の人々が自分を殺しに来るのを座して待つしかないのである。

モルモン教徒はアメリカの中で少数派でしかなく、しかもギルモア一家はなおさらアメリカの標準的な家庭とは言えないことは承知の上で、この『モルモン書』や『ハーバード白熱教室』にあらわれた家族や兄弟に対する姿勢には、アメリカの一つの典型が見られるように思う。私の仮説を大袈裟に言えば、アメリカの家庭とは一つの部族なのだ。そして警察をはじめ、刑を下し運用する法曹でさえアメリカ人の家族にとっては他部族なのだ。それは信頼すべき相手というより、(少なくとも潜在的には)争い殺しあうべき相手なのだ。
このようなアメリカとくらべるとき、日本が「均一な村社会」などと言われるのも理解できる。日本では犯罪を犯した身内も、犯罪の被害者も、それを裁く法曹も、大多数の日本人の心の奥底ではみな身内のようなものなのではないか。息子が罪を犯す。親戚たち、あるいは村人全員が集まって相談する。そこで決められた罰に反対する理由が、私たち日本人には論理的にも感情的にも見当たらないのだ。

『白熱教室』で違和感を抱いたもう一つの点は、連帯や忠実など公共に関わる道徳価値について取り上げた部分だった。サンデル教授はマッキンタイヤによる「自己の物語的な理解」という説を紹介する(エピソード7)。我々はただ生きているのではなく、ある物語を引き受けて生きている。「私は何をなすべきか?」という質問に答えるためには、それ以前に「私はどのような物語を生きているのか?」という問いを問わねばならない。そして(とマッキンタイヤは主張する、)この自己の物語的な理解が道徳にも影響することを認めるとすれば、人は個人として善をなすことはできないことに気づく。私たちはみななにがしらかの社会の一員として周囲の環境に働きかける。私たちはみな誰かの息子や娘であり、あれやこれやの町の市民であり、ある仲間たちや部族や国の一員なのだ……

私が思うに、人がかならずある物語を引き受けて生きているというのはいいとして、なぜその物語はかならず愛国的な臭いのするものでなければならないのか?日本の戦後民主主義のような物語だってあるし、公共などとは何の関係もない物語だって可能だろう。この不自然な議論のつながりの裏にはアメリカ人に固有の思考の型があるのではないだろうか?

私の言いたいのは、例えば本書の先に引用した部分に続く以下の部分に見られるような型である。

 ジョゼフ・スミスの、この歴史以前のアメリカのパノラマには、それこそ隅から隅までまんべんなく殺人と荒廃が描かれている。暴力というものが常に説明なり解決なりを要求するものであることを考えると、『モルモン書』の恐ろしく唐突な啓示には、実に仰天させられる。モロナイが血に染まったあたりの光景を見渡して、かくのごとき大量の殺戮死滅にいたった歴史的経緯を逐一辿っているうちに、幾世紀にもわたる破壊をもたらした背後の力が、誰あろう神自身であることがだんだん明らかになってくるのである。この無人の土地にこれら流浪の民を導いたのは神であり、すさまじい抹殺にいたらざるをえない因果伝承を作りだしたのもまた神なのだ。このアメリカの最大のミステリー小説の根幹をなす殺戮の陰の設計者は、実に神なのだ。自分の原則と栄光のために、それが幾世代にもわたる終わりなき荒廃を伴うものであることを知りつつ、子孫に計り知れぬ代価を要求した怒れる父なのだ。
 『モルモン書』におけるもっとも激しい瀆神の場面は、コリホルという名のカリスマティックな無神論者にしてキリスト否定者が神の審判官と王の前に立ってこう言い放つところである。「これらの人々はその父祖の行なった破戒の故に罪があり、堕落していると汝らは言う。しかし聞け、私はここに告げる。父の罪が故に子に罪はないのだ」
 このような恐れを知らぬ暴言を吐いたために、神はその場でコリホルの口をきけなくしてしまう。そしてコリホルが心から改悛したにもかかわらず、神は赦しを与えようとはしない。コリホルはあてもなく国をさまよい、慈悲と日々の糧の恵みを乞うことになる。でも人々は彼を捕まえてさんざん足蹴にして踏み殺してしまう。

父祖の罪をその子や子孫が引き受けるというアイデアは、宗教的にお互い兄弟関係にあるムスリムたちの国に攻め入って殺しあうというアイデアと同様に、旧約聖書やこの『モルモン書』がアメリカ人の中に植えつけた、あるいはそれ以前に植えつけられていてそれらの書と同調したりそれらの書を書かせたりした、アメリカ人(西洋人?)に固有の精神構造の中から浮かび上がってきたものなのではないだろうか。