低層社会のスポークスマン 〜廖亦武へのインタビュー〜

以下はル・モンドによる廖亦武へのインタビューの翻訳です。廖亦武は中国の反体制作家で、現在日本で唯一出版されている彼の著書『中国低層訪談録』このブログでも紹介しました

蛇足ながら、ここにこれを訳出するのは中国を貶めるためでは決してありません。むしろその逆で、中国人も日本人やその他の国の人々と同じような倫理観、名誉と不名誉、恥と厚顔無恥についての感覚や美意識を持って生きていることを示すのが目的です。現在フランスで進行中の年金制度改革に反対する大規模なデモについての彼の考え方や、できるかぎり亡命をせずに中国内にとどまって低層社会に生きる人々の声を世界に届けようとする姿勢に私は深い共感を覚えました。読んでもらえば分かると思いますが、このインタビューは中国人に対する印象を良くすることはあっても、悪くすることは決してないはずです。

(以下、インタビューワーによる質問は太字で表します。)


低層社会のスポークスマン

十五回の試みのあと、あなたはようやく中国を離れ、ベルリン、パリを回って北京に戻る旅に出ることができました。西欧での第一印象はどんなものですか?

ベルリンでは、私はすぐに二十世紀の過激思想、ナチズムと共産主義が残した跡に気づきました。私は西側と東側の交差点に立っているような気がしました。それらの記憶の刻印と現代史が交差するあり様に興奮しました。パリでは、いままで一度も連絡を取ることができなかった、私と同様人権のために戦っている反体制側の友人たちと会うことができました。
その一人が私を中国人の観光客たちが訪れる場所に連れていってくれました。面白かったのは、Galeries Lafayette(有名な百貨店)を中国語に訳すと「老仏の場所」となることです。しかしそこは悟りからはなんと遠いことか!そこでたくさんの中国人団体客たちがパリをうめつくしているのを見ました……観光客の群の方が人民解放軍よりどれほどましでしょう!

あなたの目に映るヨーロッパは中国で想像していたものと同じでしたか?

想像していたものとここで見た現実との間にはずれがあることが分かりました。私がパリに対して抱いていたイメージは何よりも文学的なものでした。私たちにとってパリとはバルザックであり、カミュであり、サルトルであり、そういった古いイメージに基づくものでした。
それからまた革命的なパリのイメージ、1968年の五月革命やその無政府主義的なスローガンやバリケードが頭にありました。私の中ではパリはとても左翼的な、破壊思想と熱狂の街でした。ここに着いて私は思いました:あれ?パリも老いたなあ!

しかしあなたは今もまだ続いている年金制度改革反対運動の盛り上がりのまっただ中に到着したわけですが……

それはまさに私の意見を裏打ちするものです、なぜなら五月革命ではフランス人は理想のために闘ったのに今日では小さな損益を守っているだけなのですから!

あなたがようやく中国を離れることができたのはなぜだと考えますか?

私はメルケル独首相の密使の訪問を受けました、というのもドイツは中国と緊密な文化交流をおこなっているからです。彼は首相からの挨拶を届けてくれました。私が特に文学や音楽の交流のためにドイツに行こうとしていることを知っていたのです。
私はメルケル氏への贈り物としてドナースマルク監督による2006年のドイツ映画『善き人のためのソナタ』の海賊版DVDを準備しました。東ドイツ諜報機関シュタージのあるメンバーによる諜報活動とその苦しみを描いた作品で、そのケースは中国人芸術家によるレシーバーを耳につけたスパイの絵で飾られていました。
これを機会にメルケル氏は私が生まれて始めて国外に出られるよう手配してくれたのです。ドイツの記者たちはこのことをとらえ、中国での違法コピーや首相が違法な品を受け取ったことについて辛辣に書きたてました。
直近の中国への訪問で、メルケル氏は40億ドル(28億8千万ユーロ)の商談をまとめました。私はこの裏取引が私の出国許可を間違いなく後押ししてくれたのだと思います。

あなたは十月八日の劉暁波によるノーベル平和賞受賞のニュースをどこで聞き、どんな風に受けとりましたか?

そのすごいニュースを聞いたとき、私はフランクフルト書籍見本市に行くところでした。これがもし一年前の、中国共産党公認の百三十人の作家を含む千五百人もの中国政府職員の代表団が赤絨毯で迎えられ盛大にもてなされた前回の見本市の最中に起きたとしたら、どんな衝撃を与えただろうかと私は思いました。
今年は、私は確かに孤立していたけど、でももちろんうれしかった。中国語から翻訳された稀少な本が何冊かネオンで照らされたスタンドの上に積み上げてあって、その向こうで中国からやって来た役人が居眠りしてました。私たちの国では、その照明の仕方は鶏肉とか野菜とか卵なんかの食品の売り場でよく使われているもので、もっと強い光の方がそれらの作品を引き立たせるだろうしよりふさわしいのにと思いました。
劉暁波に与えられた褒賞について、私はそれは反体制活動家に与えられたものであると同時に作家に与えられたものだと考えます。私にとってそれはノーベル平和賞であると同時にノーベル文学賞でもあるのです。

ノーベル平和賞があなたの友人である劉暁波と人権のために闘う闘士たちに与えられたことによる精神的な支えの他に、それは中国共産党に対してどんな政治的影響を与えるでしょう?

私は政治家じゃないし、私の持つ断片的な情報だけでは中国共産党の神秘を分析するには不十分でしょう。しかし私が思うにこの賞は、何年ものあいだ、一般の人々の沈黙と無関心の中で人権の状況や政治改革の緊急性を知ってもらおうと、より多くの自由を求めて闘ってきたすべての人に対する感謝を表したものなのでしょう。それはまるで真実を覆っていた帳が突然裂けたようなものです。

中国の発展は中華帝国と経済的なつながりを持つ民主主義諸国が中国による政治的自由の軽視を告発しようとする際の障害となってはいませんか?

この状況を理解するには、1989年の民主化革命と天安門広場での抗議運動から始める必要があります。それは私たちの生活を揺るがした中国現代史の転換点でした。この事件の後、劉暁波比較文学の教授から反体制活動家となったのです。私は詩人から反体制作家となりました。
1989年の春に放映された、ドキュメンタリー作家Su Xiaokangによる中華文明についてのドキュメンタリー『河挽歌(L’Elegie du Fleuve)』は天安門広場での大きなデモを引き起こしたきっかけの一つでした。Su Xiaokangは亡命しました。
これらベテランのうちの多くは民主化革命にさよならを言って去っていきましたが、ごく少数は劉暁波や私のように反体制の赤信号をつけられたために運動を続けていったのです。
中国研究家たちもまた彼らなりに同様の選択を迫られました。大多数はビザを得るために体制側と妥協し、ごく少数だけが、もう中国に行くことができず、彼らの好む国で仕事をせざるを得ないリスクを受け入れて異議を唱え続けたのです。

それらの中国研究家たちは、あなたの意見では、中国での基本的人権の状況を覆い隠すことに加担したのでしょうか?

世界中のほとんどの中国研究家たちは、この大国の「驚異的な経済発展」のみを重視することによって中国外における中国理解に有害な影響をもたらしました。
私に言わせれば不名誉の極みは2009年のフランクフルト書籍見本市で、そこでは中国側の官僚はすべて受け入れられ、従順で体制に認められた作家以外の作家たちは自分の意見を表明できなかったのです。中国研究家の中には国家の医者、アカデミー会員、権力を持つ官僚になったものもいますが、彼らはそうして歴史から外れてしまったのです。中国研究家の多数派は中国の現実とその外国向けの虚像との間に不透明な壁を築き上げてしまったのです。

あなたはフランス在住のノーベル文学賞作家である高行健のような亡命作家たちの沈黙をどのように説明しますか?

それはたいしたことじゃない……でももしノーベル平和賞文学賞がフランス人に与えられたのだったら、彼も前向きなコメントをしたに違いないと思います。

劉暁波はあなたの文学だけでなく、同様にあなたの市民的、政治的、肉体的勇気を賞賛しています。なぜならあなたは四年もの間の収監と繰り返される拷問を経験したからです。彼はしばしば自分は“VIP”囚人だったけど、あなたは特にひどく扱われていたと言っていますが……

牢獄は誰にとってもつらいものです。しかしそれは私にとって文学の学校でした。フランクフルト書籍見本市に招待さえたあれらの中国人御用作家のように私もなったかもしれないわけですから。1989年以前は私は詩人で、将来のことには無頓着でしたが、人生については何一つ分かっちゃいなかったし、私は酒を飲み、ドラッグに走り、そのすべての機会と快楽を貪っていました。牢獄で私は密輸入業者や麻薬の売人やポン引きたちに出会いました。口にするのも汚らわしい話も聞きました。でも結局それらはとても興味深い話でした。というのも、それが私に自分の国の真実を明かしてくれたからです。
牢屋を出たあと、私は社会の低層に入り込みました。私は乞食になったのです。二年の放浪のあと、私は自分が出会った貧民たちが教えてくれた知識の重要性について気づき始めたのです。私の書くもののスタイルを変えたのはそれです。私の詩人としてのロマンチックな側面はそれ以来消えました。二十年前から私はこの種の話を三百以上書いてきました。私の文学のレッスンは低層社会から与えられたものであることを強調しておきたいと思います。

『中国低層訪談録』(2006年)から『四川で地面が開くとき』(2010年。日本では未公刊)まで、あなたはこのダンテ的な地獄、バルザックというよりもゾラかオーウェルによって書かれたような人間喜劇を描写し続けています。この人間喜劇に典型的な人物のタイプというのはありますか?

庶民の肖像は二つの大きなカテゴリに分かれると思います。一方は虐待を受けて苦しんでおり、他方は恥にまみれて生きている。中国の歴史は悪循環にはまっていて、というのも悲惨から抜け出るためには破廉恥になり盗みや強姦や売春をしなくちゃならない、そしてその結果として周囲の人々の苦しみを増してしまうわけです。
牢獄の中では生き延びることが最優先ですから、私は自分の作家や政治犯としての立場を忘れていました。ただそういったよろいも役には立ちました。私たち知識人はペンや名声を生き延びるために利用できるのです。
低層社会の人々はその悲惨な人生の中に、自分を表現する術もなく閉じ込められているのです。なぜなら、たとえインターネットがいくばくか中国人を変えつつあるとしても、エリートと低層社会をつなぐ橋などあったためしがなかったからです。私は彼らのスポークスマンになりたいのです。

なぜあなたは牢獄を出たあと詩を書くのをやめたのですか?西洋では怖ろしい出来事に面したときに取りうる倫理的、詩的態度として少なくとも二つあります。悲劇のあとに詩を書き続けるのは好ましくないという態度と、詩はその惨事を書き続けられるはずだという態度です。あなたは自分はどちらだと考えますか?

このジレンマ、葛藤のことはよく分かります。私にとっては問題は倫理的というより現実的なものなのです:私は今“ラオ・ウェイ”というペンネームをつけたもう一つの人格の罠にはまり込んでいて、人はますます多くの話を彼に語りに来るのです。私にはもう書いている時間も他のことをする時間もありません。それらの話を聞いていると、文学というものは決して現実には追いつけないと思わされるのです。どうやって一人の詩人があのような地獄めぐりを描けるでしょう?

あなたにとって一番ショックだったのはどのような話ですか?

大概はいつも最後に聞いた話がショックです。ですが特に酷い話を一つ覚えています。ある男がある日私に、1950年の農場改革のころに初めてよちよち歩きを始めたときのことを話してくれました。彼はそのとき赤ん坊で、母親が首をつり父親が銃殺されたその日に一人で家から畑に出て、それから茨の藪まで坂を上ったのです。彼は地主の息子で追放されるか殺されるかしかないところを、哀れに思ったある農婦が自分の子として育ててくれたのです。
この秋、中国を出てヨーロッパに来る直前に、倒産したばかりのレストランの主人がその失敗を私に語りました。その不幸を語りながら、彼はその店で使っていた、植物油よりも廃油の割合の方が多い混ぜもの入りの油の製造の秘密を私に説明してくれました。しかし私が怖ろしく感じたのは、倒産してなければ彼がそのことを私に言うことは決してなかっただろうということです!
この種の話は毎日あります……最近私は成都で大変評判の魚の餌がかつてはニワトリの糞で、そして今では人間の糞便であることを知りました。でも誰もそのことをビジネスのためにやってきた西洋人には言いません。

中国の経済発展の魅惑についてはどのように考えますか?

中国はたくみに隠されてはいますが投機的なバブルの中にあります。外国に一番たくさん投資して、システムがはじける前に逃げた者らがいちばん儲けてきたわけです。彼らは当然ながらバブルについて人に知らせるよりもそこから利益を引き出すことを考えますし、そうやって経済的な大成功の物語を広め続けるわけです。システム全体がいかさまに基づいているのにです。
不動産を例にとりましょう。セメントやブロックや鉄骨の品質は非常に悪いです。これから十二年、十四年後には、文字通りと比喩の両方の意味で、すべて灰燼に帰すでしょう。でも投機屋たちはその老後をリビエラバンクーバーで静かに過ごすことでしょう。もし、いつか私が亡命することになったとしても、彼らとご近所として付き合いたくはないですね!

亡命については考えますか?

いいえ、私は中国にとどまりたいし、私の創造の土地にとどまりたい。それに、私はこの仕事をしたいし、それが誇りなんです。私の仕事は証人、歴史の代書人になることです。それは中国の栄えある伝統の一つなんですよ。私は非才ながら漢王朝の偉大な歴史家の一人、司馬遷の列に連なりたいと思っています。彼は本当のことを言ったために虚勢されました。もちろん私はそこまでなりたいとは思いませんが!

(Nicolas Truongによるインタビュー、翻訳Marie Holzman)