女性にとっての初恋というもの 〜パーマネント野ばら〜

シネセゾン渋谷で『パーマネント野ばら』を観てきた。すばらしい名作だと思う。原作は西原理恵子、監督は吉田大八。泣いた。電車の中で映画のシーンを思い出し、また泣いた。


★以下、ネタばれ注意です。この映画を観ようと思っている方は、まず映画を観てくださいね。


女性が初めて恋をした相手の男というものは、いつまでも記憶に残るものなのだろうか?

人の強い思いが現実を歪ませる……それがキム・ギドクの映画を思わせる。ただギドク作品では人はその強い願いをかなえるために現実を捻じ曲げるのに対し、この『野ばら』では、もっと日本的と言おうか、幽玄な、亡びの方へと向かった思いである。現実を「変える」のではなく、現実に背を向け、あるは切り捨てて、自分の中にある狂おしくも愛おしい思いとともに心中するために現実が歪まされるのだ。

もしもなおこが孤独であったなら、彼女は一人でその歪みを味わい広げながら自分の内部で爛熟させて、やがて決定的に現実から離れていってしまったかもしれない。波打ち際で、恋人である高校教押野カシマがなおこに語る。
「そろそろ、一緒に暮さないか……あんた、ほっとくとどっかに行っちゃいそうだからな」
この言葉が含む、もう一つの恐るべき意味。

しかしこの映画の救いは、なおこが一人ではなかったということだ。まず、みちゃん、ともちゃんなどの友人たち。彼女たちはみながみな、それぞれ真似のできないやり方で度を外れた人々であり、「狂って」いるのだが、その狂気はこの十年一日のような海沿いの町に住む人々によって肯定されやさしく受け止められているので、その「状況」から狂気だけが「病い」として切り離され、独り歩きした揚句に病院に閉じ込められるということは起こらない。

そして最後の最後で、娘に呼ばれて我に返ったなおこが娘に見せるあの微笑。友人たちと、娘という蝶つがいによって、なおこはかろうじで現実とつながり続け、やがてそこへ戻ってくることが暗示される。

ストーリーだけでなく映画としても素晴らしかった。押さえられた色調、喜劇場面での原色。そして感情のうねりにあわせて開放される波打ち際の映像のあの奥行き。
もちろん、繊細な恋に生きる女性を演じた菅野美穂なしにはこの映画は成り立たなかっただろう。
それから、ことの結末をまず示し、そのあとにそこへ至った経緯を映し出すという手法。要するに近い過去へのフラッシュバックなのだが、スタイル化され繰り返されるそれは複雑なことを行いながら映画を明晰にとどめ、そしてそれが最後の場面のフラッシュバック、遠い過去へとさかのぼるそれへとつながり、つよく心を揺さぶるのだ。