開かれた日本とその未来 〜銃・病原菌・鉄〜

ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』〈上・下〉を読みました。実に興味深く盛りだくさんな本です。

冒頭で著者は一つの問題を提起する。地球上のある地域の人びと(例えばニューギニアの)が他の場所から来た人びと(例えばヨーロッパからの)に植民地化され、支配されたのはなぜか?どうしてその逆ではなかったのか?
本書の全体はこの質問への答えになっている。その答えを大雑把にまとめると次のようになる。つまり、肥沃三日月地帯や中国を抱えるユーラシア大陸は、栽培可能な植物、家畜化可能な動物の品種に恵まれていた。そのため多くの人口を抱える定住社会が早くから発達した。またその東西に長く伸びる形状から、同じぐらいの緯度にある他の社会から、文字を含むさまざまな発明を取り入れることができた。人口の密集と家畜は疫病をはびこらせることにもなったが、それがまた他大陸の征服のために役立った……。

それでは、中国文明の場合はどうなのだろうか。中国は鋳鉄、磁針、火薬、製紙技術、印刷術においてかつて世界をリードしていた。それなのに、なぜその後になってヨーロッパに遅れを取り、植民地にされかかったのだろうか。
 エピローグにおいて著者はこの問題にもばっちり答えている(P308)。

十五世紀初頭には、大船団をインド洋の先のアフリカ大陸東岸にまで送り出していた(鄭和の南海遠征)。数百隻で編成されたこの船団には船体が四〇〇フィートに達する船もふくまれていた。乗組員の総数は二万八〇〇〇人にも達した。彼らは、たった三隻のコロンブスの船団が大西洋を渡ってアメリカの東岸に到着する何十年も前に、インド洋を越えてアフリカ大陸にまで達していたのである。では、なぜ中国人は、アフリカ大陸の最南端を西にまわってヨーロッパまで行かなかったのだろうか。
(中略)
 これらの謎を解く鍵は、船団の派遣の中止にある。この船団は、西暦一四〇五年から一四三三年にかけて七回にわたって派遣されたが、その後は中国宮廷内の権力闘争の影響を受けて中止されてしまった。(中略)中国は国全体が政治的に統一されていたという点でそれらの国々とは異なっていた。政治的に統一されていたために、ただ一つの決定によって、中国全土で船団の派遣が中止されたのである。ただ一度の一時的な決定のために中国全土から造船所が姿を消し、その決定の愚かさも検証できなくなってしまった。造船所を新たに建設するための場所さえも永久に失われてしまったのだった。

中国とは対照的だったのが、大航海時代がはじまった頃のヨーロッパだった。当時のヨーロッパは政治的に統一されていなかった。イタリア生まれのクリストファー・コロンブスが最初に仕えたのはフランスのアンジュー公である。(中略)コロンブスは三人の君主に断られ、四番目に仕えた君主によって願いがかなえられたのである。もしもヨーロッパ全土が最初の三人の君主のうちの一人によって統一支配されていたら、ヨーロッパ人によるアメリカの植民地化はなかったかもしれない。

 このように、ヨーロッパと中国はきわだった対照を見せている。中国の宮廷が禁じたのは海外への大航海だけではなかった。例えば、水力紡績機の開発も禁じて、十四世紀にはじまりかけた産業革命を後退させている。世界の先端を行っていた時計技術を事実上葬り去っている。中国は十五世紀末以降、あらゆる機械や技術から手を引いてしまっているのだ。政治的な統一の悪しき影響は、一九六〇年代から七〇年代にかけての文化大革命においても噴出している。現代中国においても、ほんの一握りの指導者の決定によって国じゅうの学校が五年間も閉鎖されたのである。

 実はこの中国の「統一」という特徴については、もっと前の部分でも触れられていた(P186)。

中国では、北部で起こった周王朝を手本に、紀元前の一〇〇〇年間に国家統一がなされ、紀元前二一一年に秦王朝が誕生している。(中略)この文化的統一は、ときには乱暴な政策が実施された結果でもあった。たとえば秦の始皇帝は、秦王朝が登場する以前の歴史書をことごとく無価値と決めつけ、すべて燃やすよう命令している。この焚書はわれわれが初期の中国の歴史や文字システムを理解するうえで大きな損失となっている。

 中国には強力な中央集権の伝統がある。現代でも党や国家の中枢部が強力な指導力を発揮して歴史の解釈や考え方までを公式に規定し、必要だとなれば、例えば一九六〇年代に制定された簡字体のように、常用漢字に一字を入れる入れないで大騒ぎする日本では考えられないような政策も果敢に採用し、やり遂げてしまう。日本もすこしは見習えばよいのにと思うこともしばしばだが、こうしてみると強力なリーダーシップというのも良し悪しなのだろうか(しかし日本はひどすぎると思う)。

 話が変わるが、思うに現代の日本人は、いまある良いものを一つも損なうことなく慎重に事を進めようとしすぎるきらいがあるのではないか。私はそれが日本のいい点だと思っているが、反面、ようするにそれは老人の思想であって、そのまま国ごと美しく滅びるのをよしとするならともかく、生き延びるためにはいつまでも慎重第一とも言っていられない。

本書を読んでいても印象的なのは、長い時間の流れの中で滅びていく事物の多さだ。人間に狩られて絶滅し、わずかに土の中の骨としてその痕跡をとどめる動物たち、滅びてあとかたも消えうせた言語、他から移動してきた民族に攻められて絶滅・同化されてしまった民族……。こういうことを言うと、またアングロ・サクソン風の生存競争イデオロギーかと思う人がいるかもしれないが、しかし生存競争はイデオロギーではなく事実だ。自分たちだけが知っている、緻密で完成された、美しい世界があったとして、それにどんなに高い価値があると自分たちだけで思っていたとしても、そこに閉じこもっているばかりで世界に向けて開こうとせず、地球規模でのつながりを失っていくとしたら、それは滅びる。それも、あっという間に滅びてしまうのだ。

日本はさらに国を開いて世界規模でのつながりをふやしていく必要があると思う。そうやってショックを与え、新陳代謝をそくし、感じる力、考える力、行動する力を刺激する必要がある。もっと英語に堪能になることも必要だろう。
その場合、もっとも手っ取り早い方法は移民を世界中から、十万人、百万人の規模で受け入れることだろう。そうして、日本にやってきた彼らに、日本の文化や社会をわかりやすく説明していく必要がある。もちろん翻訳すれば細かなニュアンスは落ちてしまうだろうが、そんなことをかまっている場合ではないのだ。韓国人がハングルを発明し、中国人が簡字体を導入し、昔の英語が他言語の語彙を取り入れ文法を簡素化したように、日本語から平明に作り変えていく、ぐらいの意気込みが必要だと思う。

あるいは逆に、日本人が移民となって世界中に散らばることで生き残るという手もある。もちろんそこで日本語や日本文化は変質し、また色々な部分は欠けて失われ、また異文化の中で薄まり、吸収同化されてしまうかもしれないが、それもまた「生き残る」ことの一つの形ではないだろうか。もともと、言葉も文化も変化していくものだ。この列島にしがみついたまま若い世代がその可能性を試すこともなく朽ちていくよりも、広い世界、新しい環境で生命力を得て活動するほうがどれほどマシだろうか。

現在のまま相対的な鎖国を永遠に続けるのでない限り、いつか日本は移民を受け入れ、また自ら移民となることを通して世界に広がることになるだろう。そのとき日本国は単なるインフラ、プラットホームとなる。誰でも望めば日本国籍を得られ、また二重国籍も取れるようになる。日本国籍は、現在の血統証明書のようなものではなく、住民票のような、単にサービスを受けるために必要な手続となるだろう。日本の持つよいところは世界中に拡散して取り入れられ、逆に日本人もまた世界中からよいものを取り入れてハイブリッドな文化を育めばいい。

そして、やがては日本人というものも世界の人類の中に拡散してなくなるだろう。が、考えてみれば、人間というものはみな死ぬまでの時間を使い、言葉や行動、あるいは遺伝子という形で周囲の環境に自分の印を刻み込み、そうして自分は死んでいくものなのだ。日本という国もそうなるだろう。それに、そのとき日本人は秦の始皇帝のようにそれまでの自分たちの過去すべてを否定し破壊する必要はないのだ。かつての日本文化や文明は、電子化された形にできるものは保存され、世界各地のサーバーの中に生き続け、遠い未来の人類を触発する機会を待ち続けることになるだろう。