経済成長戦略メモw

いまさらまた経済成長ですか?

六〇年代の高度経済成長期にもうずいぶんとやったんじゃないんですか?またやれって?やる気わかんな〜。同じぐらい「高度な」成長は望み薄なのに?それもその理由というのが「今あるものを守るため」ってゆう、なんつうか、後ろ向きな理由なところが、ますますやる気わかんな〜

だいたい成長ったって、いつまで続ければいいのさ?「今あるものを守るため」なら、未来永劫ってことでしょ?ずっと同じ「経済成長」っていう一点を、日本人はこれから滅びるまで目指していかなきゃならないのか?いったいそんなことが、そもそも可能なの?現実的なの?

経済を 成長させろ 言われても やる気わかない 別のことしよ

とはいえ、やはりできれば貧乏はしたくない。あまり働かずして、余所の力を借りて楽してお金儲けできるならそれに越したことはない。そこで、大きなお世話だろうがすでにあるいくつかの(他力)経済成長戦略をまとめてみた。

A. スイスになる
スイスは永世中立国などと言って、ぱっと見には小奇麗でスマートだけど、実は相当ヤバい国である。脱税やマネー・ロンダリングに使われるという銀行の秘密口座のことは有名だが、それだけじゃない。税制はほぼタックス・ヘブン並み、アメリカにも目をつけられODBCの有害税制リストにも載るほどだし、それら銀行システムや税制を最大限に利用した宝石(密輸品も含まれる)や貴金属の取引や加工、銃器や装甲車などの武器の輸出、富裕層外国人に対する税制を含めたさまざまな優遇など、ようするに、ちょっときわどかったりえげつなかったりするが濡れ手に粟的な商売に軒並み手をつけている、そんな国なのだ。

しかしこれはGDPがちょうど日本の十分の一ほどの国だからできることである。まがりなりにもGDP世界第二位の日本がこれをそのまま真似たら世界中から非難ごうごうで立ち行かないだろう。したがってこの手でいくことを考えるなら同時にGDPを十分の一、人口を二十分の一にして、金持ちの住む小国にしていかねばならない。スイス、行ったことありますか?小奇麗な小国。浮浪者などどこにも見当たらず、街はきれいで、親孝行なパンク姿の若者がよく似合う国だ。

この手を取るにあたって最大の問題は、これが日本人の倫理観や美意識に(たぶん)まっこうから反するということだろう。

B. アメリカになる
これは要するに移民を受け入れるということ。中国、韓国などから一攫千金を目指すハングリーな若者に来てもらう。そして第二、第三の三木谷社長ホリエモン孫社長として日本の経済活動を盛りたててもらう。

このさいには、決してフランスやドイツのように、わざわざ外国から来てくれた人を召使いとか、早朝の道路掃除、ゴミ集め人夫などにはしないように注意したい。経済的に割が合わない上に、恨まれる。パリの郊外では一部の移民が暴動をおこしてますよ。車をひっくり返したり火をつけたり、あるいはギャングと化して二手に分かれ、互いに抗争を繰り広げたり……。そんなことになったら誰の幸せにもならない。

わざわざ日本にまでやってきてくれたハングリーな若者には、ぜひ起業家となってベンチャー企業をおこしてもらい、その60's的バイタリティーでもって会社を、経済を成長させてもらうのだ(他力)。ゴミ集めとか洗い物とか、そういう下々のことは自分たちでやりましょう。

もっとも、この点(暴徒化するような移民)については私はまったく心配していない。外国人を召使いとして使うというような感覚は、もともと日本には(たぶん)ないし。

この「アメリカ路線」は、喧伝はされないが多分とっくに政策として始まっているのでしょう。私が働いている会社でも、すでに中国人やシンガポール人がバリバリと働いている。女性が多いのは、男性にはやはり日本企業で働くことに対するメンツ的な抵抗があるからだろうか。日本の経済界の将来を担うのは、ひょっとするとアジア系女性移民なのかもしれない。

C. イタリアになる
これはつまり文化立国、芸術路線ということ。中国や韓国や東南アジアの人々に、服や化粧品やブランド野菜やマンガやアニメなどを売る。ブランド家電も入れてもいいかもしれない。あと、観光立国ってことで、世界中の人がイタリアに観光旅行に行くみたいに、日本に来てもらう。これはA、Bと組み合わせることも可。

さて、これらとは別に、ずばり「経済成長しない」という道もあるかもしれない。つまり、

D. 貧乏国になる
しかし国が貧乏になると、具体的にはどうなるんでしょう?ちょっと想像してみました。

貧乏国になると、つまり今までは特に意識しないまま享受していた贅沢が許されなくなり、そういった物やサービスや状況が消えていくのだろう。

例えば、都市においては街灯が節約のために消されていく。高速道路は夜はガラガラで真っ暗。電車もがらがらで本数が減るので山手線もなかなか来なくなる。コンビニの数は減少。映画や展覧会やコンサートなどの「贅沢」も激減。公私ともあらゆる建物は古びるまま修繕されなくなっていく。古くてボロボロになった高層マンションが取り壊される。さらには超高層オフィスビルも取り壊される。道は多少の凸凹があっても修理されない。清掃などの行政サービスも切り詰められ、街はかつてのNYのように汚くなる。

車は年期の入ったポンコツが増えていく。テレビでは、贅をつくしたきらびやかな番組に替わって、安セットのシンプルなクイズ番組や、低予算で撮られたソープ・オペラが増えていく。学校も校舎はボロボロ、教科書はついに使いまわしとなる。

スーパーの様子も一変する。外貨がなくて小麦や大豆、トウモロコシを輸入できないので、菓子類はみな米を原料とするものばかり。パン類、麺類、ワインなどの売り場は縮小され、米や餅の売り場に変わる。

肉類はもちろん、魚介類も国産品のみになる。シシャモ、エビ、タコはスーパーから消える。残る魚はサバとかアジとか。

さらには、年金、保健、さまざまな手当てなどの社会保障が次々に打ち切られる。病院では自己負担料が上がり、高齢者に対する延命措置の打ち切りが行われる。大都市や中小都市にスラムができる。親による子供の虐待や嬰児殺しが増える。飢える人々、行き倒れる人々がでてくる。道端や地下の通路、橋の下、駅の構内などに浮浪者がうずくまるようになる……。

経済の浮き沈みという点で、日本といろいろ共通点のあるアルゼンチンに学ぶことは多い(PDFにとびます)

アルゼンチンは一九三〇年ごろには世界で第五位の富裕国であった。その後いろいろいろいろあって、現在では一人当たりのGDPは日本の四分の一以下である。アルゼンチンを見ると、国や国民の蓄えなど、時がくればあっという間になくなってしまうものだということが分かる。

実際にはどうなるのか?このまま行けば(Aは別として)B〜Dと、さらにE、F、……を混ぜ合わせて平均をとったみたいになってしまうのだろうか。かつて世界を席巻した他の国と同様、白色矮星みたいにブスブスと燃え細っていく……というところか。

なんだか「あるべき国の姿」ということを考えていると分からなくなってくる。個人のレベルでは、選択と集中ではないけれど、贅沢はできないながらも自分が本当にやりたいことにいつでも挑戦できる、希望が持てる、そんな国であり続ければいいと思う。

良識の人 〜なにも願わない手を合わせる〜

藤原新也『なにも願わない手を合わせる』読みました。

この著者はホント良識の人です。その偏りも含めて全部そのまま受け入れてしまいそうになる。

文章は実に文学的で心地よい。あまりにも文学的なのがかえって玉に瑕なほど。

ただ、「今昔の母親の子供の育て方の変質」についての章はいろいろと疑義が残った。母親のみが中流意識を持ちブランド志向に走ったかのような、また母親だけで子育てをしているような書かれ方がまず疑問。それに、教育の姿が昔とはおおきく変わってきたのは確かだけど、それにはそれなりの時代背景と理由があるのであって、現代人は昔の人の感性や知恵を失ってしまった、的な言い方はアンフェアだと感じる。昔の村社会の嫌らしさ、子供の教育のいい加減さや酷さという側面を思えば、かつてよりも今の方が劣っている、などとは決して単純には言えないはずだ。

以下は印象深かった箇所からの引用です。

私の家の宗派は日蓮宗であり、お坊さんはその日、日蓮宗の開祖である日蓮の手紙の一節を追善供養の経に取り入れて唱えていた。

「籠の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるがごとし。空とぶ鳥の集まれば籠の中の鳥も出んとするがごとし。口に妙法を奉れば我が身の仏性のよばれて必ず顕れ給う」

 要するにこれは真言を唱えれば自分の中に眠っている仏性が引き出される、という実にシンプルなことを言っているわけだ。つまりこれは言葉と身体の関係に言及した精神生理と言えなくもない。

このような人の祈りを俯瞰しながら思うことは、祈りというものはさまざまな様相を呈しながらも、おおむね自己救済を目指しているということである。仮にそれが死者の供養のための祈りであれ、近しい者の死の供養には愛する者の死によって波立つおのれ自身の魂の鎮魂も暗黙の内に意図されているわけであり、それもまた広義の意味での自己救済の一つであろう。また般若心経を唱えながら、煩悩や執着心から解かれたいとすることもまた自己救済の一つであることに変わりはない。
つまり人の祈りというものは、この“○○のために祈る”という姿からは逃れようがないのであり、その祈りの後ろ姿に接するとき、そこの尊さを感じながらも、人間というものの業の深さをも感じざるをえない。であれば自らのことではなく、たとえば世界平和のために祈る、というようなものであればその祈りもステージの高いものになるかというと、またこれは難しい問題で、そのような祈りは時に机上の空論に似てリアリティを欠く。

芸能者は今も昔も河原者 〜河原者ノススメ〜

篠田正浩著『河原者ノススメ』読みました。

興奮しつつ読みました。

今まで興味を持ちつつもいい加減にしか把握してなかった日本の芸能にまつわるいろいろなトピックが、この本によって互いに結びつき合わされたような気がしました。

この本では中世から近世にかけて、日本における芸能と河原の関係を中心に、被差別民、巫女、梁塵秘抄、傀儡子(クグツ)、空也上人、瞽女(ゴゼ)、能、歌舞伎などについて論じています。

念のため書いておくと、篠田正浩は映画監督で妻は女優の岩下志麻。監督した作品は『はなれ瞽女おりん』、『少年時代』など多数。

以下、印象深かった箇所の引用。

一九六〇年代、テレビの仕事で河原崎しづ江と私たち夫婦が大阪に滞在していた時、長十郎の贔屓筋の紹介により桂離宮を飛び込みで見学できるという伝言を受けた。胸を躍らせて出かけたが、受付の老婦人は記帳した姓名と肩書きを見るや「河原もんはいかん」と言って、しづ江と志麻の入場を拒絶した。

『新猿楽記』で興味をひくのは芸能者の観察だけではない。大道芸を見物する人々の中で西の京に住む右衛門尉を名乗る家族の人物像に大半の筆を割いているのである。
(中略)
娘たちの夫、愛人らの職業がまた凄い。長女の夫は世に知られた博徒、次女の君は弓馬の誉れも高い武者、三女の彼は地方荘園の農業下請けで羽振りがよく、四女は巫女で、その卜占のみごとさと上手な歌舞音曲に群がるファンからの収入が莫大である。六女の夫は高名な相撲取りで八十町の免田を下賜されている。その他、飛騨出身の大工、医師、陰陽師、巨大な性器の持ち主や、侍従、宰相、頭中将らの上流階級の貴族を愛人に持つ十二女、夜になると辻君=街娼で稼ぐ美貌の十六女など、まるで仮装行列の華やかさである。
息子たちも負けてはいない。能書家、修験僧、天才的な細工・木工の職人、地方官僚、天台宗の学生、絵師、仏師、末っ子の九郎は美少年の楽人で童貞がいつ破られるのか心配だという。

自分の居場所はない世界 〜崖の上のポニョ〜

テレビでやってたので『崖の上のポニョ』を観ました。

どうもいけてない。そのいけてない感がどこからくるかというと、物語の舞台と物語のあいだで現実感のレベルのギャップがあまりにも大きいからではないか、という結論に達する。

登場人物は子供も大人も含めて子供みたいで、船長さえ子供が船長ごっこをしているようにしか見えない。しかしそんなことなら『ルパン』だってそうだけど、ルパンがOKなのはつまり舞台が物語と同じ程度に非現実的だからだ。しかも欲望に裏打ちされた感情の動きはリアル(少なくとも昔のルパンは)。

ポニョは町のつくりとか職業などの設定はリアルなくせに、そのリアルさが論理的に要請するはずのもの(「真の」労働とか競争とか死とか金とか)が徹底的に捨象されている。

そのために、どこかの新興宗教のパンフの表紙にあった「鹿のとなりにライオンが寝そべる」式の世界に対するのと同じたぐいの胡散臭さを感じてしまうのだ。

あと、好意的に描いているようでいて浅く戯画化され、結局のところ馬鹿にしているようにしか思われない老人たちとか、宝石じゃらじゃらの女神風女性とか、私の親の世代が喜びそうな西欧趣味とかが端的に鼻につく。

宗教は割に合わない 〜仮想儀礼〜

篠田節子『仮想儀礼(上・下)』読みました。
ものすごく面白かった。一気に読んだ。

都庁の役人でゲームのシナリオ書きを内緒の副業にしていた鈴木正彦が、編集者の矢口と二人で聖泉真法会という新興宗教を興す話。
教祖の桐生慧海こと鈴木正彦がたてた教義は穏当なものだった。彼はなにより人に安心や癒しを与え、その見返りとして報酬を得ることを目標とする。出家主義をとらず、親など身近な人間との和解を勧め、他の宗教も一切否定しないという、ある意味で理想的な宗教。

富裕層に食い入ってそこそこ成長した聖泉真法会をさまざまな危険が襲う。まず、金の匂いにひかれて乗っ取りを狙うやつらが現れる。それから世間の新興宗教に対する偏見とそれを煽るマスコミの攻撃に晒される。そして、最後まで残って先鋭化した信者たちが勝手に教義を捻じ曲げて暴走を始める。

それらの事態に、法学部卒で元都庁職員で根っからの常識人である桐生慧海こと鈴木正彦がどのように対応していくか、そこがめっぽう面白く、読ませて飽きない。

少女にとっての生きにくさ 〜渋谷〜

藤原新也『渋谷』

小説としてすごくよかった。この人の現実を型にはめる力、美化する力はすごいと思う。べつに非難ではない。人の手によって美化され、整形された「現実」に人は勇気を与えられる。それが芸というものだ。写真もまた人の手によって美化され、整形された「現実」である。

以下、印象にのこった部分を引用。

インタビューが終わるとじゃーねとそう言って少女は分厚いアイシャドウやマスカラのくっついた目にぎこちない笑みを浮かべて明るくその場を立ち去りました。カメラは雑踏にまぎれこむ少女の後ろ姿を追っていたんですが、少女はまるで所帯道具一式が入っているんじゃないかと思えるほどの大小のクロスバッグを両肩に提げ、華奢な背中が大きく傾いでいた。十五、六くらいの子だった。痛々しい感じがした。こんなに若くしてたったひとりで何か大きな人生の重荷を背負ってでもいるような。そんな子って最近多いですから。

「……すごいことなんだな」
「何が?」
「整形って」
「そうだよ。整形で生まれ変わることもあるんだよ」
「……たしかにすごいことだとは思うけど、それは本当に生まれ変わったということなんだろうか」
「女の子ってちょっとしたことで変わるでしょ。着てるものとか化粧ひとつで違った自分になったりするし」
「そこは男と違うのかなぁ」
「だからアタシはそのテレビ見て自分もその子のように変わりたいって思ったの」
「で、いつ整形するの?」
「ひょっとするとしないかもしれない」
「なぜ?」
「ミューレに出会ったから」
「ミューレって?」
「さっき話に出てきたでしょ」
「誰?」
「文通してるお姉さん……」
「あぁ、109の」
「ミューレは洋服とアクセサリーを売ってる店の子だったんだけど、ある日その店に入ったらすごく素敵な笑顔をくれたの。何かアタシのことが全部わかってるみたいに。いやきっとわかってたんだと思う。ミューレは言ったの。あなたドッペルゲンガーみたいねって。アタシその言葉知らなかったから何って聞いたの。そしたらここにいるのはあなたの分身であなたはそこにいないって。じゃ分身じゃないアタシはどこにいるのって聞いたらもうひとつのあなたもあなたのドッペルゲンガーだからどこにもいないんだって。
ぞっとした。だけどミューレはどこにもいないことはマイナスじゃないって言った。真っ白だからそこに魔法の絵を描けるんだよって。あなたの顔の上に本当の気持をこめてもうひとつの顔を描くとそれがあなたになるんだって。そしてミューレは店が終わってから試着室で化粧をしてくれたの。
アタシは大きな鏡の前に座った。
ミューレはどういう自分になりたいのって聞いた。
ビョークみたいにしてほしいって言った」
「ほう」
「北欧の歌手なんだけどちょっとサムい感じのする子。っていうかもう結婚して子供もいるんだけど、それでもまだサムい感じ。だけど寂しい感じがするのにすごく強い自分があるの。自分がどこの誰かわからなくなって寒気と頭痛がするようになったときビョークを聴くと気分が落ち着く。だから自分がビョークになってしまえば強くなれて気分が落ち着くんじゃないかって。
ミューレはそれはいいわねって言った。きっとうまく行くって言った。眉毛はぜんぜんちがうけど、肌の感じとか顔の輪郭がすごく似てるんだって。
長い時間かけてミューレは化粧をしてくれた。
アタシは鏡を見るのが怖くて目を閉じてた。
ミューレが柔らかいブラシとかで顔にやさしく触れるたびにアタシは知らず知らず涙を流してた。そのたびに化粧が崩れたけどミューレはまた泣いたわねって言うだけで文句ひとつ言わずやり直してくれたの。やっとできたら、ミューレはもう泣かないでねって言った。あなたはビョークみたいに強くなったんだから、泣いたらもうビョークじゃなくなるからって。それから目を開けた。えっ、これがアタシって。まるで他人を見てるようだった。アタシの後ろに誰かがいて鏡に映ってるんじゃないかって思って後ろを振り向いたけど誰もいなかった。涙が出そうになったけどぜったいに我慢しなきゃって、気持を引き締めたの。
ミューレはそれを見ていて、生まれ変わったわねって言ってくれた」

ちょうど今、渋谷のユーロスペースでこの本が原作の『渋谷』という映画をやっているらしい。観てみようかな。