良識の人 〜なにも願わない手を合わせる〜

藤原新也『なにも願わない手を合わせる』読みました。

この著者はホント良識の人です。その偏りも含めて全部そのまま受け入れてしまいそうになる。

文章は実に文学的で心地よい。あまりにも文学的なのがかえって玉に瑕なほど。

ただ、「今昔の母親の子供の育て方の変質」についての章はいろいろと疑義が残った。母親のみが中流意識を持ちブランド志向に走ったかのような、また母親だけで子育てをしているような書かれ方がまず疑問。それに、教育の姿が昔とはおおきく変わってきたのは確かだけど、それにはそれなりの時代背景と理由があるのであって、現代人は昔の人の感性や知恵を失ってしまった、的な言い方はアンフェアだと感じる。昔の村社会の嫌らしさ、子供の教育のいい加減さや酷さという側面を思えば、かつてよりも今の方が劣っている、などとは決して単純には言えないはずだ。

以下は印象深かった箇所からの引用です。

私の家の宗派は日蓮宗であり、お坊さんはその日、日蓮宗の開祖である日蓮の手紙の一節を追善供養の経に取り入れて唱えていた。

「籠の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるがごとし。空とぶ鳥の集まれば籠の中の鳥も出んとするがごとし。口に妙法を奉れば我が身の仏性のよばれて必ず顕れ給う」

 要するにこれは真言を唱えれば自分の中に眠っている仏性が引き出される、という実にシンプルなことを言っているわけだ。つまりこれは言葉と身体の関係に言及した精神生理と言えなくもない。

このような人の祈りを俯瞰しながら思うことは、祈りというものはさまざまな様相を呈しながらも、おおむね自己救済を目指しているということである。仮にそれが死者の供養のための祈りであれ、近しい者の死の供養には愛する者の死によって波立つおのれ自身の魂の鎮魂も暗黙の内に意図されているわけであり、それもまた広義の意味での自己救済の一つであろう。また般若心経を唱えながら、煩悩や執着心から解かれたいとすることもまた自己救済の一つであることに変わりはない。
つまり人の祈りというものは、この“○○のために祈る”という姿からは逃れようがないのであり、その祈りの後ろ姿に接するとき、そこの尊さを感じながらも、人間というものの業の深さをも感じざるをえない。であれば自らのことではなく、たとえば世界平和のために祈る、というようなものであればその祈りもステージの高いものになるかというと、またこれは難しい問題で、そのような祈りは時に机上の空論に似てリアリティを欠く。