わたしの読書の複数

最近おもしろかったもの。

岡田利規『わたしたちに許された特別な時間の終わり』

収録されている『三月の5日間』と『わたしの場所の複数』の二作品は、どちらもよかったけど自分は特に『わたしの場所の複数』にガツンとやられました。ようするにアルバイトで生計を立てている若い夫婦がいて、夫は深夜のファミレスの調理のバイトのあと、次の薬局での仕事までの間、飯田橋ベッカーズで仮眠をとっている。その夫を観照する「わたし」の視点で小説は書かれていて、この妻の方はその日のアルバイトを休むことに決めて布団の上でゴロゴロしながら、カビだらけの安アパートでの貧乏暮らしが嫌で夫に八つ当たりしてしまったこととか、コールセンターの内情を暴露したブログのこととか、いろんなことを思い返している。っていう、まあおおざっぱに言えばそれだけのストーリー。小説の最後にはオチをつけるための軽いどんでん返しというか、驚きも用意されていたりしているのだけど、その現代の貧乏な若者のいかにも「いまふう」な生活の切り取り方、あとやっぱりその描き方がすばらしい。小さな情景や事実をポツポツと積み重ねていく中に、ときどき「わたし」の感情の高まりに対応して長い考察や知覚やブログの引用が表れる。また、遠くのベッカーズにいる夫の微細な様子が、なぜかこの「わたし」が現にいまそれを見ているような仕方で記述される。(というか、ある意味では「わたし」はそれを見ていて、そこが最後の「驚き」につながるわけですが。)
『三月の5日間』にもこんな部分がある。

案の定彼はそのあと少しだけ申し訳なさそうな様子を私に見せたもののその直後にはもう、さよならと言って私から離れて、スタスタと映画館を出た。完全に私のことが見えなくなってから足を緩め、一度振り向いて、私が追っかけてきていないことを確かめた。それから、当初一緒に映画を見るはずだった彼女に電話して、今日見た映画はクソだった、半分以上寝た、と言った。

この本の著者は演劇をやっている人だということにこじつけて考えてみると、これって芝居の中のある人物が、はじめは自分の視点から、自分に知り得ることだけを話していたのが、やがて他の登場人物にしか知りえないことなども話し始めて、そうやって暗に台本というものの存在、「私は台本どおりのことをしゃべってるんですよ、芝居ですから他の登場人物の見ていることや考えてること、これから見ることや考えることも本当は全部知ってるんですよ」とメタ的暴露をする感覚なのかな、などとも思った。
ついでに、『わたしの場所の複数』という題もすごくいいと思う。

糸井重里みうらじゅんの対談『糸井とみうらの長い年月。』
http://www.1101.com/toshitsuki/index.html
複雑なユーモアの微妙なニュアンスが、会話からおこされたあとのただの文字からなぜか伝わってくるのが面白い。チョー楽しくて、おまけにホロリとさせられるところもあったりして。対談を読んでホロリとするなんて初めてだ。

■上田惇生『ドラッカー入門』

ドラッカーはいろんなことを言ってるが、やはりモダニズムデカルト主義(大陸的合理主義)を乗り越えるべき時が来ているという話が一番自分にはしっくりときた。ドラッカーの故郷であるヨーロッパの人々の自信満々の議論を聞いているとよく疑問に思えてくるのがその点だ。彼らは考える方法が一通りに決まっており、つまりそれがデカルト式の合理主義なのだが、しかもその方法で「原理的には」「ゆくゆくは」すべてが説明でき、解明できると信じているのだが、そこが自分には大いにひっかかる。フランスやドイツの新聞から日本に派遣された若い特派員の記事などがその典型だ。彼らはみな同じように合理的に考えるので、ちょっと離れて眺めると、逆に動物かロボットみたいに見えてくる時がある。もちろん、そうでない人もいる、と言いたいところだが、彼らの思考の枠組の強制力はとても強力なので、ドラッカーのような認識を共有する人は案外とても少ないと思う。

Zazen Boys
忘れちゃいけない。

逆に、おもしろくなかったもの。

塩田明彦カナリア
オウムのような教団でくらしていた男の子と、荒んだ家庭の女の子が出合い、男の子の妹と母親を探して二人で旅をする話。
子供たちだけでのサバイバルというテーマや、映像から受ける印象は『誰も知らない』を思わせる。が、『誰も知らない』はとても面白かったけど、こちらはイマイチだった。映画の頭での状況設定や役者の演技が嘘っぽく、力が入ってない感じがして、話の中に入り込めなかった。脚本が説明的すぎるんじゃないだろうか。
ただ、あの男の子役と、それにあの女の子役はすごく頑張ってたし、俳優として才能あると思った。トリュフォーカネフスキーの映画に出てきそう。

ミルトン・フリードマン『資本主義と自由』
ガサツで大味なテンガロン・ハットをかぶったアメリカ人が、せいぜい背伸びして文明やら哲学やら文化やらにも言及してみました、みたいな。
全編に共通なのは「結論ありき」で、その結論に向かって強力に理屈をこじつけていくというスタイル。経済を学ぶというよりも、1962年当時のアメリカ人の考え方の一つの典型を学ぶのに役立つと思う。
「解説」によると、フリードマンは議論には決して負けなかったという有名なエピソードがあるそうです。そりゃまあそうでしょうね。ただしそのことはフリードマンの議論がガサツで単純であることの証拠でしかない、とは思いますが。こんな穴だらけの議論を自信満々な調子で聞かされたって、正直反論する気も失せるってもんですよ。
ドラッカーにひきつけて言えば、ただの退屈なモダニスト。ようするにホリエモンだね。自分には「原理的には」何でも分かっている、っていう仮定から始めちゃうんだ。こんな人がノーベル経済学賞ですが。ノーベル経済学賞ってたいしたことないね。さらにいえば、経済学って、ほんとショボい学問だな。
有名な経済学者や政策について、つねに経済学者たちの評価が真っ向から割れるのを見ると、つまるところ経済学ってのは永久に白黒はっきりしないやり方で物事を取り扱う、どこにも通じない袋小路のような学問なんじゃないかと思えてくる。経済学ってのは高度になればなるほど悪い意味での「哲学」に似てくるんじゃないかな。そこからいちばん多く学べるものは、それを言ったり書いたりした人の文化的背景やものの考え方なんだろう。