貴族と奴隷のカップルの話 〜ある子供〜

ダルデンヌ兄弟監督の映画『ある子供』をみました。ものすごく色々なことを考えさせられたという意味で、良い映画だったと思います。


ある荒廃した地方の町。ブリュノは引ったくりや物乞いをしながら暮らしている。小学校高学年くらいの子供と協力してひったくりをし、えた金はきちんと分けあう。盗品やいらないものはすべて監禁してくれる買い取り屋があり、また盗品の携帯電話用プリペイドカードのブローカーもいる。

ブリュノの恋人のソニアが一人で病院で産んだブリュノの子供を抱きかかえて帰ってくる。ブリュノはソニアに誘われるままに市役所へ行って子供の認知届けも出す。ソニアはブリュノに、あるまじめな仕事の話をもちかけるが「あんなクズどもと一緒に働けるか」とブリュノは断る。

ブリュノはソニアに無断で子供を売ってしまう。それを聞かされたソニアはショックで倒れてしまい、ブリュノは慌ててブローカーに話をつけて子供を取り戻すが、ソニアはブリュノをまったく受け付けない。相棒と二人で引ったくりをするが車で追われ、ブリュノは動けなくなった相棒を見捨て、相棒は警察につかまってしまう。ブリュノは最後には相棒に義理を立てて警察に自首し、刑務所に面会に来たソニアの前で泣き崩れる。


自分はブリュノにまったく共感できなかった。最後のシーンで彼が変わったと言われても信じられない。ソニアがここで彼を再び受け入れるとも思えない。

ブリュノの犯罪を「罪がない」と考えるべきなのだろうか?彼の弱さを「人間味がある」と捉えるべきなのだろうか?あるいは不況の被害者だとでも?

自分はブリュノに、自分たちの価値観にしばられ、その枠内でしか考えることができない、まるでロボットのようなものを見た気がして怖かった。彼らはフランス的価値観に忠実に生き、その中にしっかりと捉えられている。まるで自分から好き好んで損な役回りを担うかのように。

例えば、子供を売ってしまってから反省し、相棒を見捨ててからやっぱり反省するという態度は、ひどいことをやってしまってから反省するというカトリックの懺悔システムそのままだ。

自分の都合だけを考えて行動するというブリュノの態度もあまりにもフランス的だ。弱者同士の奪い合い。フランス国鉄の職員たちは自分たちは高級取りのくせに平気で何週間もストをして、車も買えない本当に貧乏な労働者たの郊外からの通勤を妨げる。グローバリズム反対という名目で、家族もいる労働者たちが懸命に働いて維持している商店を打ち壊す。それでもフランス国民の多数派は手段を選ばずに自分の利益を守る人間を支持するのだ。そして「どうにかうまくやる」という態度を頑固に支持する風潮が、縁故主義をはびこらせる。そこには日本的な平等などという観念は(当然ながら)どこにもない。うまくやったもの勝ち、という風土。一言でいうなら、エリート主義。

この映画を観て、自分はまったくフランスの社会党的、文化人的な価値観を信じられなくなっていることを再認識した。もちろん自分は新自由主義の信奉者でもグローバリズム擁護論者でもない。しかしこの手の視線、低所得者や社会的弱者に対する偽善的な思いやりに満ちたまなざしにはもううんざりだ。


ブリュノは家庭生活にも、ソニアとの愛の生活にも、自信をもって全身全霊をささげるということがきっとできない。身軽にあちこち動き回って売ったり買ったり、独自のコネを利用した取り引きで大金を得るとか、計略、機転を利かせるとか相手を出し抜くとか、そんな小手先のコツでもって「どうにかうまくやる」ことにしか、ブリュノはきっと喜びを見出せないという気がする。かっこよく自分の力で生きているようでいて、まったく他人の欲望に踊らされているのだ。

ただ、ブリュノのような人間からもまったく民族排他主義の匂いがしないという点が、唯一フランスの救いではある。

これはソニアとブリュノの欲望の戦いの物語でもあるのかもしれない。ブリュノのそれに比べればはるかに確固とした欲望を持つソニアに対して、ブリュノはソニアの欲望へ奉仕するという欲望しかない。まるで妻に出世を自慢するサラリーマンのように、ブリュノは子供を売って得た大金をソニアに見せびらかす。ソニアの欲望をその大金の力で塗り替えようとするかのように。しかしソニアはそんなブリュノの小ざかしい処世術の成果など鼻にもかけないのだ。