新しさと保守 〜ノーカントリー〜

2007年、コーエン兄弟監督・製作の『ノーカントリー』を観ました。

!!!ネタばれ注意!!!

麻薬の取引がこじれたあとの現場にたまたま通りかかり、そこから大金の入ったバッグを持ち帰ったモスは、止めときゃあいいのに死にかけている男に水を飲ませてやるために現場に戻り、案の定ギャングたちに発見されて、四コマ漫画の「べーしっ君」にそっくりの殺し屋シガー(ハビエル・バルデム)に追われることになる。

モスはシガーの手を逃れるためにいろいろと工夫を凝らし、シガーに傷を負わせ、いい線まで行くが、映画の最後から3分の1のあたりで結局シガーに殺される。モスの妻も殺される。シガーを雇ったギャングのボスも、そのボスがやとった別の殺し屋も、みんなシガーに殺される。シガー最強。

最後、トミー・リー・ジョーンズ演じる警官が、退職した同僚の家でグチる。「歳をとれば神が降りてくるのだと思ってた。降りてこなかった」「理解できない事件が多すぎる」すると同僚が言う。「この状況は変わらない。それを変えられると思うのは傲慢(vanity)*1だ。」


これはとんでもなくシニカルな映画なのだろうか?そもそも、理解できないような殺人が日常茶飯事という状況があるとして、私たちはいったいどうしたいのだろう?「理解できる」殺人ばかりの過去に戻りたいのか?

私にはそうは思えない。私たちは心の底ではむしろ、とことんまでこの状況を進めていったらどうなるかを見てみたいと思っているのではないだろうか。

新しいタイプの殺し屋。快楽殺人鬼でもなく、金などの実益目当てでもない。まるで多すぎる人口を間引いているような。そのようにプログラムされたロボットのような。

こうしてまた私たちは新しいものを求める。新しいタイプの悪、新しいタイプの殺人者、新しいタイプの残虐、新しいタイプの地獄。


私たちはどうして新しさを求めるのだろう?そもそも、どうして私たちは次から次へと新しい映画をみ、新しい小説を読むのだろう。

新しさを求めず、これまでやってきた通りのことをこれからもずっと世代を渡って繰り返していくことに満足し、その無限の鎖の中の一つの輪が自分であることに喜びを見いだす、そのような意味での「保守」。鎖は全体としてはすでに完成されていて、もう何もつけ加えるものもなく、取り去るべき余分なものもない、そのような「保守」。

そんな「保守」はアメリカにも日本にももはやない。私たちはみな、この世界がこれからどうなっていくのか、その未来を見極めたいと思っている。レヴィ=ストロースの言うところの「熱い社会」ではみんなそうなのだろう。

「過去に学べ」というが、私たちは悪にも善にも飽きる。だとすれば、歴史から過去の善を学ぶことは、むしろ私たちが実現しようと思える善のレパートリーをせばめ、私たちの善の実現を困難にしてしまうのではなかろうか。ローマ帝国は、過去の栄光を知るからこそ滅んでしまったのではないだろうか。

大政奉還の頃までは、日本は繰り返し過去へと、本来あるべき律令制の日本へと戻ろうとしていた。日本は保守的だった。日本はもはや保守的ではない。保守的ではない社会、自由に新しさを求めるような社会で歴史教育をおこなえば、それは必然的に人を隘路へと追い込んでいくのではないだろうか。

「熱い社会」、グローバリズム、自由に新しさを求める社会。そこから抜け出して「保守」へと戻る可能性はあるのだろうか。固定資産税をタダにして国民に土地を分配すれば、人は自分の土地で自給自足で生きていくことができ、「保守」の地盤ができるだろう。それに鎖国を組み合わせれば最強。生活水準は下がるが幸福の合計値は上がるだろう。

しかし、今の時点で日本人がそのような「保守」を求めるとは思えない。日本人もやはりアメリカ人と同じで、幸福のためだけに生きているのではないのだ。

*1:七つの大罪の中の「傲慢」がarroganceではなくvanityであることにちょっと驚き。Vanityには「虚栄」だけではなく「傲慢」という意味もあるんですね。