阿部和重について 〜阿部和重対談集〜

『阿部和重対談集』読みました。いま一番自分が読んで面白いものを読んだという気がする。我が意を得た部分もあれば、目から鱗が落ちたという部分もあった。まあとにかく、阿部和重の小説はすべて読もうという気になりました。


ここで一つ、阿部和重について考えたことを書いておきます。


このところ阿部和重の小説を集中的に読んでいると、私が今まで大好きだった作家たちの小説が急にセピア色に変色して見えてきた。まるでそれらの小説は、阿部和重のそれと比べるとすでに古典作品のように思えるのだ。かつては小説ってものはこんな感じに書かれてたんですよ、という未来の人のおしゃべりが聞こえてきそうなぐらい、それくらい、阿部和重の小説は私の小説に対する考え方を変えてしまった。先走りして書くが、かつてサルトルはラジオのインタビューの中で(当時は最先端をいっていた)自分の小説もいつかは埃っぽいもの(古色蒼然としたもの)に当然なるでしょうねと言って、やはりその通りになったのだけど、阿部和重の小説が古くさいものに思える日が、やはりいつかは来るのだろうか。


阿部和重の小説は従来の小説とどこがちがうのか?今まで読んできた彼の小説を思い返してみると、以下のことに気がつく。

まず、冒頭には新聞や辞書などからの引用という、ある形式にのっとって書かれた外部からの言葉がくる。『グランド・フィナーレ』にはあからさまな引用はないが、冒頭はやはり紋切り型であきらかに借り物の言葉と分かる、キッチュな描写から始まるのだ。

次に、それらの引用のあとに人物が提示されるのだが、作者自身が『対談集』の中でも述べているように、これが常に全速力で頭を働かせていて、頭の中に自分の世界を作り上げてしまっているようなパラノイアックな人物なのだ。

小説はこのパラノイアックな人物が勝手に自分の理屈を構築して行動し、外の世界に跳ね返されるという構造を持っている。

ここで重要なのは、このパラノイアックな人物はいかなる意味でもヒーローではないということだ。彼のパラノイアックな構築物は、すべて外部の世界からの借り物の言葉でできているのだ。つまり彼らにオリジナリティとか個性とかいうものはない。そして、さらに誤解がないよう念を押すために阿部和重は彼らをほぼ常に”後ろめたい”人物にしている(ペドファイルのストーカー、引きこもりがちの殺人者、盗撮者)。


ここで別の作家の小説に目を向けてみよう。例えば村上春樹の小説は、(初期の軽い作品を除けば)常に人の心の動き、愛情や憎しみ、友情や葛藤、憂鬱などの感情を、小説世界の中で「重要なもの」として描いている。登場人物は「個性」を持ち、それらの個性的な人物の心がまず特権化されていて、また、ある神秘的な状況(深い森とか)の中で人物が何かを感じる、その感性というものが特権化されている。

大江健三郎の小説はどうか。初期の作品、例えば『芽むしり仔撃ち』では「正しい」主人公と「悪」の村社会との対立を描いているし、『個人的な体験』は主人公が困難を克服して成長するビルディングスロマンという風に明確な型がある。しかし『万延元年のフットボール』以降、そのような伝統的な型は見出せなくなる。そして、それら中期以降の小説の、特に読後に私の頭に強く印象づけられるようになるのは、ある状況の中で発せられる不思議な言葉や発言なのだ。つまり、『万延元年のフットボール』の中の「本当のことを言おうか!」という言葉や、『みずから我が涙をぬぐいたまう日』の中の母親の「……ですが!」という語尾などだ。それらの言葉はその意味するところははっきりしないまま特権化される。しかし考えてみれば、言葉にこだわるという態度は、それは詩人のものではないのか。大江健三郎は長い小説を書く散文の大家のようでありながら、その核には言霊信仰のようなものがあり、それが彼の小説に一種の呪詛的な印象を与えているのではないだろうか。彼がイェーツやブレイクなどの詩人に惹かれるのも、こう考えれば納得がいくのだ。


阿部和重の小説では、登場人物の感情や感性というものが特権化されるなどということはないし、またある特定の言葉や発言だけに焦点が当てられるということもない。それでは彼の小説では、いったい何に焦点が当てられるのか?何にも。というか、彼の焦点はホログラムのように小説全体に分散していると言ってもいい。あるいはこうも言えるかもしれない。彼の小説の焦点は、まさに焦点の不在、特に小説だけに限らず、人間一般における焦点などというものの不可能性に当てられている、と。

さらに言い換えればこうなる。阿部和重の小説のテーマは、人間の必然的な凡庸性、主体とか個性とか呼べれるもののフィクション性、「人間の死」であると。

我ながら、パラノとか凡庸とか、いったい何十年前の話だ?という所もなきにしもあらずだ。実は私は阿部和重と同世代で、大学では蓮實重彦の著作に、いろいろ反発を覚えながらも読みふけった口だった。そして、その後も私たちの世代はさまざまな情報を通して人間中心主義への疑問を植えつけられたのだと思う。人間の意志決定や行動の生物学的、ゲーム理論的説明などもその一つだ。いかにもアメリカ風の没倫理的な、そしてその嬉々とした説明の口調に眉をひそめながらも、でもやっぱりそれが正しいのだろうなあ、などと考える、というようなことを繰り返すうちに、私たちの世代は人間に対してペシミスティックな、斜に構えた態度をとるようになったのかもしれない。だから私(たち?)は阿部和重の小説にリアリティを感じる、もっと簡単に言えば心に”しっくり”くると思うのだろう。


もうひとつつけ加えると、阿部和重の小説の中の人物は、そのパラノイアによって個性を得ているように見える。かつて「パラノ」に対して「スキゾ」、つまりスキゾフレニックなものが称揚された時代が確かにあったと思う。「パラノ」とはクレッチマーの分類で言えば「筋肉質」であり、いかにもしつこくて体臭の強そうなイメージがある一方で、「スキゾ」はどこか明るくて軽やか、芸術家タイプ、あまりにも誠実にものを考えすぎて醜い現実にはじき飛ばされてしまった堕天使、極端に誇張すればそういった差別的で感情的なイメージが、あまり批判されることもなく共有されていた時代だ。

しかし考えてみれば、「スキゾ」な態度というのはどれもこれも似通ってくるものであって、パラノイアックな妄想こそ個性的であり得るのではないか?という転換が、いつかどこかで起こったらしい。

時代はいま、完全に「パラノ」の側にある。「体系だった妄想」はいつの時代にもあったけど、今ほどそれが広く受けいられ、有り難がれ、もてはやされたことはなかったのではないか。そう考えると「オタク」という現象も、抑圧されてきたパラノイアックな欲望の反乱として捉えることができるのではないか。

そして阿部和重の小説は、このパラノイアックな欲望や人物を(なぜか)人に受け入れられやすい形で、清潔に、ポップに描き出しているという点に、彼の「サクセスの秘密」があるのではないだろうか。