ダンサー空也

旧タイトル「市の聖!空也?」も気には入ってたんですけどね。ええとご存じかもしれませんが空也というのは平安中期に活躍した僧で、口から6体の阿弥陀仏を吐き出しているあの衝撃的な像で有名な人。

当時京都に流行した悪疫退散のため、上人自ら十一面観音像を刻み、御仏を車に安置して市中を曵き回り、青竹を八葉の蓮片の如く割り茶を立て、中へ小梅干と結昆布を入れ仏前に献じた茶を病者に授け、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えてついに病魔を鎮められたという。(現在も皇服茶として伝わり、正月三日間授与している)

上人が鞍馬山に閑居後、常々心の友としてその鳴声を愛した鹿を、定盛なる猟師が射殺したと知り、大変悲しんでその皮と角を請い受け、皮をかわごろもとし、角を杖頭につけて生涯我が身から離さなかったという。

六波羅密寺のサイトより引用

私の野望は、この空也ローマ皇帝ヘリオガバルスをこじつけにより結びつけることだった。

象の尻のような大車輪のついた、車体の低い車にのせた陽物像は、鎖につながれて吠え立てるハイエナの群に猛り立つ三百頭の牡牛に曳かれて、ヨーロッパのトルコ、マケドニアギリシア、バルカン諸国、現在のオーストリアを、縞馬が走るようなスピードで通過する。

ヘリオガバルスには踊り子ふうなところはないが、彼がすばらしく舞踏的な足さばきで登場する姿は舞踏としての価値があった。まず静寂、次に炎がもえあがり、乾いた狂騒の宴が再開される。ヘリオガバルスは歓声をとりまとめ、黒こげとなった生殖の情熱、死の情熱である無用の祭式を執行する。

彼は牡羊の角のついた太陽の冠を着けている。

アルトー『ヘリオガバルスまたは戴冠せるアナーキスト』より引用

もちろん、ヘリオガバルスは狂った王であり、空也は庶民の苦しみを除こうとしたえらいお坊さんである。

しかし、私はあえて両者とその時代に共通する点を想像したいと思った。日本の中世に猥雑さを発掘したかったのだ。

もっとも、日本の中世に猥雑さを見出したいと思う人は結構いるみたいで、花輪和一もそんなマンガを描いてるし、谷崎潤一郎芥川龍之介も「少将滋幹の母」や「好色」の中で平中という猥雑な人物に着目したのだった。

この時代、京では人間の死体が河原に打ち捨てられ腐敗していた。おおくの血や精液、膿や漿液やウジ虫たちが混じり合い流れていたはず。この点においてはヘリオガバルスのローマと変わりない。

また富の集中、驕奢の追求という点においてもどうだろうか。その現れ方はちがうが、お経を何千回唱えたとか、念仏を何万回唱えたとか、時代は下るが三十三間堂のような数への偏執狂的なこだわりと比べて、どちらがより狂気に近いとは言えない。

空也はまた踊念仏の祖とも言われている。町田康『パンク侍、斬られて候』の中で「腹振り教」という、まあファナティックな踊念仏の一派を描いているんだけど、空也も体の底から湧き出てくるファンキーな力を素直に表現する天才だったんじゃないか、とまあそんなこじつけを考えていたんですが。