紋切り型からの脱出

自分の心身にぴったりと合った職を持たず、創造的な人間でありたいと願いながらもどこか自分を紋切り型ではないかと恐れている、そんな人物が阿部和重の小説にはよく出てくる。私のようなブロガーもまさにそんな一人なのだが。

そんな自分に自信のない人間にとって、まずは怠けてずるずると無駄に時を過ごすことこそが、紋切り型の最たるものに思えてくる。それで、私たちは何か計画を立てそれを実行することによって、紋切り型の輪廻から脱出しようとするのだ。『ニッポニアニッポン』の主人公・鴇谷春生にとっての「ニッポニア・ニッポン問題の最終解決」のように、加藤容疑者にとっての秋葉原襲撃のように、また私にとってのブログのように。

だがそんな、自分の無化や死を乗り切るための計画を立案する、という行為もまた、紋切り型の最たるものであることは言を待たない。

しかしですね。まあわずかな天才たち(良寛さんとか)を除き、計画を立てず、かつ凡庸を避けるなどということは至難の業だ。計画がなければ我々は指針を失って立ち往生し、衰弱し、あげくの果てには最も紋切り型な形で哀しくも暴発するしかない、そう、あの加藤容疑者のように。

私にとって、人生とはそのような、はじめは希望を抱かせるけど結局はがっかりさせられる計画の連続だ。一世代前、我々の父親の世代の人間は、人生というものをどのようにとらえているのだろう?なぜ彼らがクソ面白くもない(ように思える)仕事に嬉々としていられる(ように見える)のか、すでに私には理解が出来ないでいる。

望むべくは、そんな計画においてわずかでも、意識と無意識の混合具合の中に自分らしさ、自分の「グレース」を実現できればいいのだけど。