アイロニックな小説 〜ニッポニアニッポン〜

道の上で干からびかけて瀕死のミミズたちに哀愁を感じるこの季節、みなさまはいかがおすごしでしょうか。

さて、『グランド・フィナーレ』にひきつづき、阿部和重『ニッポニアニッポン』読みました。

今回はちょっと趣向を変えて、29日の朝日新聞に載った斉藤美奈子氏による「文芸時評」を引用します。平野啓一郎『決壊』を評した部分。

登場人物は意図したかのようにみなステレオタイプだし、彼らの言動にも(衝撃的ではあれ)どこか既視感が漂う。
もっともその既視感こそがこの作品のキモなのだ、とも考えられよう。注目すべきは作中に太字で印刷された部分である。ネット上の書き込み、メールのやりとり、マスメディアが発する数々のコメント。そこに表れた驚くべき紋切り型の言説(これが恐ろしくリアル)の中で私たちは暮らしている。

これってまるきり阿部和重じゃん!と心の中で叫んだのは私だけではないはず。阿部小説の「登場人物の言動が意図したかのようにステレオタイプ」なことはよく言われてるし、ネットやら新聞やらの引用を太字で印刷するのもしかり。

誰かが誰かの真似をしたとか、影響を受けたとか言いたいわけではない。そのような、わざと紋切り型を見せることで他の何かを言ったり批評したりするというアイロニックな小説が今一番おもしろい、みんなが一番おもしろいと感じているのだなあということ。

小説にはその紋切り型を描写されている人物への批評もあるし、それにたいして紋切り型な反応をする周囲の世界への批評もある。そして、このどうしようもない状況の中で紋切り型にもがく人物がなぜか、どこかの地点で、卑小でありながらも同時に個性を持った、生きて戦う、誤解を恐れずに言えば「愛すべき」人物に転換する。たとえそれがストーカー(『ニッポニアニッポン』)であったり、ペドファイル『グランド・フィナーレ』)であったとしても。それが、細部を積み重ねることで見慣れたはずの風景をなにか希有なモノに見せてしまう、見せることができる、そして読者をその中に引きずり込むことのできる小説の魔法の力だ。

しかし『日蝕』を書いた作家が阿部和重に重なるとは意外。きっと頭の柔らかい人なんだろうなあ。