マリア像の前で懺悔 〜フランドル〜

映画『フランドル』(2006年)を観た。
カンヌ映画祭パルム・ドールを受賞した作品だそうだが、私には道徳的に破綻した、反吐が出るほど内向きの映画だとしか思えなかった。

あらすじ

陰気で貧しそうな農村の若者たち。バルブとデメステルは気軽にセックスをする仲だが、デメステルはみなの前では「二人は友達だcopain et copine」と言っている。やがてデメステルは他の村の仲間たちとともに兵隊になって戦場へ赴く。
村に残されたバルブは精神を病んでいく。
フランドルとは対照的な、どこまでも明るく乾いた光景が続く砂漠地帯にデメステルたちは戦いにやってくる。仲間を爆弾で吹き飛ばされ、ヘリコプターがさっとやってきてその死体をテキパキと運んでいく。やがて彼らは子供の戦闘員を殺す。そうして人を殺すことに慣れていく。ロバを連れて歩いてきた無抵抗な男を、銃を持っていたというだけでその場で処刑する。家に一人でいた女を輪姦する。
やがて男たちは村の部族に捕まる。ロバの男を殺した兵隊がまず銃殺される。さらに女を犯した報復に、一人の兵士が性器を切り取られたあと銃殺される。
デメステルは同じ村のブロンデルと脱走する。ブロンデルは数日前、彼から「バルブが自分の子を宿している」と聞かされていた。走って逃げているときにブロンデルは足を撃たれる。デメステルは迷ったあと彼を見捨てる。ブロンデルは部族に殺される。
デメステルは民間人のいる家を襲うなどして、なんとか生き延びでまたフランドルの村へと帰ってくる。ブロンデルの恋人がデメステルに恋人がどうして死んだかをきく。デメステルはウソを言う。バルブも同じことをデメステルにきく。「撃たれて」とデメステルは答えるが、「ウソよ。私は見ていたのよ。あなたは彼を見捨てた。私が彼の子を宿したからだわ」と言う。しばらくして、デメステルはバルブに「君の言うとおりだ。ぼくは彼を見捨てた」と告白する。バルブは彼をなぐさめ、二人はセックスをする。デメステルはバルブに「愛してる」と言う。


いったいこの映画は何を言いたいのか?
デメステルはバルブへの愛を確認するために戦場へ行って罪のない人々を殺したり強姦したりすることが必要だった、ということか。「愛してる」などとフランス映画の戯画のようなことをつぶやくために?自分の国ではなんなりと好き勝手にすればよかろう。問題は、あの戦場で殺された兵士でもない村の人々への落とし前はどうつけるのか?ということだ。この映画では、この落とし前がつけられていない。

戦争の悲惨を美化する事なくリアルに描いていることをもって、戦争に対して批判的な姿勢を見せ、つまりは反戦映画となっているという意見もあると思うが、それはどうだろうか?酷いとわかっていながらも戦争をしかける、人を殺し、強姦しておいて、そのあとに反省する。豚のように泥にまみれ、その自作自演の悲劇に隠れた悦びと満足を見出す。そういった西欧の体質こそが問題とされなければならないのだ。

ヨーロッパもまたアメリカと同じように、自分の道徳的な優位を主張し、それを根拠に他国へと軍隊を送り、結局この映画にあるように殺し、強姦、好き勝手なことをして、そしてこの映画のデメステルのように悩み、反省し(しかも彼の反省は同じ側の兵士であったブロンデルに対してに過ぎないのだ!)、泣きじゃくり、そしてマリア像の前で懺悔をするように、それまで邪険にしていたバルブに自分の罪を懺悔し、なぐさめられ、セックスをさせてもらい、許される。というか、許されたと勝手に思い込む。これがアメリカを含む西欧の戦争に対するマンネリ化したパターンだ。ベトナムで好き勝手に人間を殺す。文化人が反対を唱える。反戦運動が盛り上がって撤兵する。それでカタがついたように思う。あるいは、独裁者を倒すと言ってイラクに攻め込む。罪もない市民を多数巻き込む。WTCにいた人々がアメリカ政府が世界中でふるう暴力や謀略に責任がないと言える以上にフセインの独裁に責任がないはずの女性や子供たちの手足がアメリカの爆弾で吹き飛ばされ、血の海の中に横たわる。やがて反戦運動が湧き起こり、大統領選では対立する候補が選ばれる、それでカタがついたように思う。
カタなどまるでついてはいない。

彼らは溜まった性欲を自分が見下す女の体内で射精することで紛らわすように、その暴力への衝動をアフリカや中近東で発散するのだ。人を殺し、女を強姦し、無力な国や国民を陵辱することによってようやく彼らは自分の力を確認し、どうにか正気を保っているのではないのか。
だが、そんなことがいつまでも続くはずはない。続かせてはならない。