良心的アメリカ人の諦観 〜スローターハウス5〜

カート・ヴォネガット・ジュニア『スローターハウス5』(一九六九年)読みました。面白かった。

主人公のビリーは戦争中の一九四四年、最初の時間内浮遊現象を経験する。過去や未来のあちこちに時間が飛び、いきなり子供になったり、一九六五年にとんだりして、その年に経験した、あるいはするであろうことを経験するのだ。彼は自分の死を何度も見てきたし、その様子をテープレコーダーにも吹き込んでいる。

「わたし、ビリー・ピルグリムは」と、テープは始まる、「一九八六年二月十三日に死ぬのであり、常に死んできたし、常に死ぬであろう」

ビリーはまたトラルファマドール星から飛来した空とぶ円盤に誘拐されもする。トラルファマドール星人はすべての時間を同時にみることができる。彼らにとっては変化とか自由意志というものは存在しない。「それはただあるのだ。」
読者はビリーと共にあちこちの時間へと飛び回ってその時その時の経験を(追)体験するうちに、トラルファマドール星人の感覚を共有し始める。つまり、すべての時間はただその通りにあるだけで、変化もなく、「どうして」とか「なぜ」ということもないのだ、という感覚。小説中に散りばめられる「そういうものだ(So it goes)」という文句がそれを象徴する。

この「時間内浮遊現象」の設定に加え、ビリーが経験する「戦争」が小説のテーマとなる。ビリーは前線の奥深くに迷い込み、ドイツ兵に捕らえられる。彼はドレスデンに移送され、そこで十三万五千人の死者を出した無差別爆撃を体験する。これは著者の実体験でもあるらしい。

この「戦争」というテーマと「時間内浮遊現象」というSF的な設定の組み合わせが、例えば次のような美しくも感動的な、ひるがえって悲しい、一節を生み出す。

 ビリーは料理用ガス・ストーブの上にある時計を見た。円盤はまだあと一時間たたないと飛来しない。彼はびんをディナー・ベルのようにふりまわしながら居間にはいり、テレビのスイッチをいれた。そのとき軽い時間内浮遊がおそい、深夜映画の画面はいったん逆光すると、やがて元の流れにもどった。第二次大戦における米軍爆撃機隊の活躍と、爆撃機に搭乗した勇敢な男たちの物語である。ビリーが逆向きに見た映画の粗筋は、つぎのようなものだった――
 負傷者と死者をいっぱい乗せた穴だらけの爆撃機が、イギリスの飛行場からうしろむきにつぎつぎと飛びたっていく。フランス上空に来ると、ドイツの戦闘機が数機うしろむきにおそいかかり、爆撃機と搭乗員から、銃弾や金属の破片を吸いとる。同じことが地上に横たわる破壊された爆撃機にも行なわれ、救われた米軍機は編隊に加わるためうしろむきに離陸する。
 編隊はうしろむきのまま、炎につつまれたドイツの都市上空にやってくる。弾倉のドアがあき、世にもふしぎな磁力が地上に放射される。火災はみるみる小さくなり、何個所かにまとめられて、円筒形のスチール容器に密封される。容器は空にのぼり、爆撃機の腹に呑みこまれて、きちんと止め金におさまる。地上のドイツ軍もまた、世にもふしぎな装置を保有している。それは、たくさんの長いスチールのチューブである。ドイツ軍はそれを用いて、爆撃機や搭乗員から破片を吸いとっていく。しかしアメリカ軍のほうには、まだ数人の負傷者が残っており、爆撃機のなかにも修理を必要とするものが何機か見える。ところがフランスまで来ると、ドイツの戦闘機がふたたび現われ、人も機体も新品同様に修復してしまう。

 編隊が基地へ帰ると、スチールの円筒は止め金からはずされ、アメリカ合衆国へ船で運ばれる。そこでは工場が昼夜を分かたず操業しており、円筒を解体し、危険な中身を各種の鉱物に分離してしまう。感動的なのは、その作業にたずさわる人々の大半が女性であることだ。鉱物はそれぞれ遠隔地にいる専門家のところへ輸送される。彼らの仕事は、それらが二度とふたたび人びとを傷つけないように、だれにも見つからない地中深く埋めてしまうことである。

核兵器も含めて、ぜひこの解体のプロセスを順回しのニュースの中でみたいものだ。