むかつく作家のむかつく小説 〜長いお別れ〜

レイモンド・チャンドラーの小説『長いお別れ』(1954年)を読みました。鼻持ちならない小説。

!ネタばれ注意!

長い小説なのでなんとなくごまかされてしまいそうになるけれど、落ち着いて考えてみるとこれはとても変な、はっきり言えば無理のあるストーリーだ。

まず探偵マーロウが登場する。そしてこのマーロウという男は数回しか会ったことのない、たいして取り柄もないテリーというふやけた男にやたらに友情と義理を感じ、「筋を通す」。マーロウが「筋を通す」ところがこの小説の唯一の感情に働きかける点であり、何度もマーロウが「筋を通す」場面が繰り返し描写されるが、読者はしまいにはいい加減食傷気味になる。いや、それ以上に、マーロウという男のことが何だか疑わしく、胡散臭く思えてくるのだ。こいつって、ほんとに立派ないいやつなの?

例えばマーロウ(およびその背後にぴったりくっついている作家自身)は探偵としての仕事を依頼されてもなぜか金を受け取ろうとしない。そんな調子でマーロウは始終金に興味がないようなふりをするのだが、そのくせ金持ちやその生活には(作者とともに)興味津々なのだ。登場人物は探偵とヤクザそれに警察を除けば、みんな金持ちばかり。そしてそこで起こる事件というのは要するに上流階級の「セレブ」たちの間での痴話喧嘩なのだ。

まあそれはいいとしよう。とにかく致命的なのは、探偵マーロウがそこまでして義理を通した相手というのが実はまだ生きていて、メキシコで整形手術(!)をしてメキシコ人に化けて帰ってきてマーロウに会いにくるという筋書きだ。な・に・そ・れ?ちょー興ざめなんですけど。マーロウとその男の友情も(当然ながら)そこで終わることが示唆されているけど、マーロウ君は最初っからなんでそんなやつと友達になったわけ?説得力のある理由なんでどこにもないのに。

ハード・ボイルドの探偵、美人の女が実は冷酷な殺人犯というおち、これらの点はハメットの『マルタの鷹』のパクリだを連想させるが、スペードの方がマーロウよりも金に厳しくプロフェッショナルで、はるかに人間としてリアルで信じられる。マーロウは結局金持ちたちに褒めてもらいたいだけの偽善者としか思えないのだ。その一皮向けば清教徒的・老婦人的な偽善性が、いちいち章の終わりにカッコウをつけて終わる(一皮向けば)ヒラヒラしたレースのような文章とマッチして、実にイヤらしい感じなのだ。


ところで、この破綻小説とケインの『郵便配達は……』をおこがましくも比べるなら、どう考えてもケインのやつの方がはるかにすぐれた文学作品であるように私には思える。ところが文庫版『郵便配達は……』の訳者・小鷹信光さんのあとがきによると、

チャンドラーはかつてある手紙の中で、「彼(ケイン)がふれるものはすべて、牡山羊のように臭いのです。彼は私の嫌いな作家のあらゆる素質を身につけています。まやかしの純真性、油がしみた作業衣を着たプルースト……そんな人間は文学の屑肉です。汚いことについて書くからではなく、汚いことを汚く書くからです」と悪口のかぎりをならべたてた

というのだ。はあ?

キレイは汚い、汚いはキレイ……

ケインもきっとチャンドラーとその小説が大嫌いだったにちがいない。はっきり言おう。私もチャンドラーが大嫌いだ。

チャンドラーさん、あんたは汚いことを小説に書かないのか?金持ちの女が嫉妬のために別の女の顔を滅多打ちにして殺した話を書いてるくせに?それともあんたが「汚い」と言うときはセックスのことを言っているのか?でもそれだってあんたの小説の中に間接的にはたっぷり入ってるでしょうが。

ああそうだった。「汚く」書くことがダメなんだね。つまりあんた的には、どんな汚いことでもキレイに書いてあればOKなわけだ。ようするに貧乏人の惨めな人生とかの真実を直接的に、リアルに、正直に、ありのまま書くとNGで、あんたのこの小説みたいに何もかも間接的にレースのヒラヒラに包み上げて、章の最後にはいちいちカッコウつけて、探偵はなぜか金もセックスも断り、汚い犯罪やセックスはすべて金持ちの上品な世界の香水の雲の中で暗示されるだけ、特に殺人はとびきりの美人が犯したってことにすればOKなんだね。ドストエフスキーカフカもNG。セリーヌなんてのはもってのほか。ま、所詮あんたとは趣味があわんわ。

まあ考えてみれば、あんたは堂々と「私は偽善が好きです、表面を取り繕ってキレイそうに書くのが好きです」って言ってるわけだ。そんなことが自慢になるとは知らなかった。私に言わせれば、そんなあんたがケインを『文学の屑肉』呼ばわりとは失笑だね。だいたい『郵便配達は……』のフランク・チェンバースのどこに「まやかしの純真性」があるというのか。「まやかしの純真性」はどう考えたってあんたのマーロウにこそお似合いだろうが。