人の強い思いが時空を歪ませる 〜悪い男〜

キム・ギドク監督『悪い男』(2001年)みました。

あらすじ

娼家街を取り仕切るヤクザのハンギは無口で暴力的な男。街で見かけた女子大生のソナに目をつけた彼は、ソナの恋人の前で強引にソナの唇を奪い、男たちから袋叩きにあい、ソナには唾を吐きかけられる。
ハンギはソナをこっそりとつけ回し、人を使い本屋でソナの目につくところにわざと財布を置いてソナに盗ませ(盗むなよ!)、それをきっかけに彼女を売春宿に売り飛ばす。
ソナは客を取らされ、その様子をハンギは鏡の裏にある暗い部屋から眺める。ハンギの手下がソナを好きになってソナを逃がすが、家の前でハンギにつかまる。ソナは海へ連れていかれる。砂浜には赤いワンピースの女が座っていて、二人が来るのと入れ違いに女は立って海の中へと入っていく。女がいた所には写真の切れ端が埋めてある。売春宿に連れ戻されたソナが写真の切れ端をつなぎ合わせると、それは一組のカップルが砂浜で撮った二枚の写真で、顔の部分だけが欠けている。
ハンギは鏡の裏からソナに寄り添ったり、酔ってソナとベッドで寝入ったりする。(この辺が日本のヤクザ映画とは違うところ。ハンギは結局ロマンチストの甘えん坊なのだ。しかし娼家街の用心棒をしているような男が、(たとえ女子大生であれ)女性に対して幻想を抱いたりできるのだろうか?)
やがてハンギは手下の殺人の容疑を被って刑務所に入る。面会にいったソナは「どうしてくれるのよ!私をこんなにして!無責任じゃない!あなたなしでどうやって生きていけばいいのよ!」とハンギを責める。
ハンギは容疑が晴れて刑務所から出てくる。ハンギはソナを最初に彼女に出会ったベンチに置いて、去っていく。ソナは家に帰らず当てもなく道を歩き続け、行きずりのトラックの運転手と寝る。前にハンギと来たことのある砂浜へやって来たソナは、砂の中から写真の欠けていた部分を掘り出す。それは自分とハンギの顔だった。ソナは写真の中で自分が来ているのと同じワンピースを買う。そこへ、写真の中と同じ服装をしたハンギがやってくる。
二人は軽トラックを改造して荷台にベッドを置いた車に乗り、漁師相手にソナが売春をしながら旅を続ける。


最初はちょっと感情移入ができなかった。女子大生のソナはいかにも「女子大生」風に浮ついていてしかも人の財布を平気でネコババしてトイレで現金だけを抜き出して鞄にしまう様子が卑しく、売春婦にされてもあまり同情がわかないし、ハンギはハンギで寡黙なハードボイルドなヤクザと思いきやロマンチックで甘えん坊な展開にはがっくりとさせられた。破いた写真の破片というのもいかにもテレビドラマ風で感傷的だと感じた。

だが切れ端をつないで元に戻した写真の、そこだけ欠けている顔の部分に鏡のこちらがわのソナの顔と、鏡の裏側のハンギの顔が交互に映るシーンにはぐっとくるものがあった。

おっ、と思ったのはやはりあの写真の欠けていた部分が砂の中から見つかって、そこに(現実にはあり得ない)ソナとハンギの顔が映っているシーンだった。このシーンで、映画をみている方は頭がフル回転して、そんなことはあり得ないはずだと理屈で確認するのだが、同時にこの不可能性がぐっと映画の奥行きを広げて、映画全体をどこかマジカルなものにしてしまう。今みている映画の見方の変更を観客は迫られるのだ。

キム・ギドク監督の映画には、しばしばこのような、マジックに転ずる非現実というものが導入される。『うつせみ』(2004年)、『弓』(2005年)、『絶対の愛』(2006年)など私の見たギドク作品はどれもそうだった。そして、その非現実は登場人物の欲望と深く関係している。誰かが強く欲望したことがそのまま現実になるというのではない。(それではただのおとぎ話だ。)非現実の導入によって映画世界の時空の構造が歪み、それによって欲望が(本来の形ではなく思いも寄らなかった形で)かなえられるのだ。

例えば『弓』では、現実世界のルールでは少女は老人の船を去らねばならない。しかし少女は老人を愛している。この二つは現実では相容れないのだけれど、少女と老人の思いがあまりにも強いために世界がねじ曲がり、両立し得ない二つが両立してしまうのだ。つまり少女は船を去るが、その前に二人はマジカルな方法で結婚をして結ばれるのだ。

・ソナが「こんな私にされた」ということについて。
若い女性はセックスという行為に、生死に関わるような重大な意味を込めない方がいい。もちろん、それは「処女」というものに価値を見いだしたり、「強姦」をその被害者を迫害するための理由にしたり、若い女性が「純真」で「何も知らない」ことを尊ぶような社会(世間)の価値観の反映なのだけど。社会の古い価値観をそのまま真に受けて苦しむなんてやめた方がいい。例えばソナの場合、どうして解放された後さっさと家に帰れなかったのか?もちろんハンギと暮らすというのは一つの選択だが、それとは別に、いまさら「汚れた」私が家に帰り、元の生活に帰っても、父親や母親に昔のように受け入れてもらえるか、かつてのように大切にされ、愛されるかどうかが不安だったのではないだろうか。ソナは自分でセックスを汚れと結びつけて考える限りにおいて汚れてしまう。ソナは自分の「貞操」とやらが奪われたということよりも、罠であったとしても他人の財布を盗もうとしたこと、またあやしげな契約に易々と同意してしまったこと、さらにいえばこのような詐欺にひっかかったことを、もっと反省すべきなのだ。私がソナの父親だったらそのように教育したいと思う。

さらに言えば、「貞操」を奪われたことを辱めと感じるような女性は、社会の古い価値観をそのまま体現し受け入れることによって自らが被害者になると同時に、そのような古い価値観を自ら支持し補強することによって自分もまた古い価値観にしばられた「社会」の一部となり、そのような価値観に苦しむ人々に対しての加害者となるのだ。(性犯罪を犯す男に罪がないとか、「あまり」罪がないとか言いたいのではありません。性犯罪の被害者が自分を「汚れた」などと責めることはないし、またそういう風習を助長すべきではないという意味です。念のため。)

桐野夏生の『グロテスク』を読んだあとだからかもしれないが、私は売春婦という仕事がそれほど恥ずべきものだとは思えない。それは誰もができる仕事ではないし、誰もがしたいと思う仕事でもないだろう。他のどんな仕事だってそうなんだけど。
金をもらってセックスをするという広い意味でとらえるなら、それをしながら楽しく幸せに暮らしている人は大勢いるに違いない。売春婦だって特別な人間じゃない。この世界で生きていて、それぞれの日常がある。売春婦のソナもその父親と同じソウルに生きていて、この映画の中の一シーンみたいに雨が降ってくれば鉢植えを外に出したりもする。(借金のかたにとられて自由がないことは問題だが。)もちろん、売春婦にだって良い人間もいれば悪い人間もいるだろう。健康な人間もいれば病的な人間もいるだろう。
『グロテスク』のユリコは言う。

娼婦になりたいと思ったことのある女は、大勢いるはずだ。自分に商品価値があるのなら、せめて高いうちに売って金を儲けたいと考える者。性なんて何の意味もないのだということを、自分の肉体で確かめたい者。自分なんかちっぽけでつまらない存在だと卑下するあまり、男の役に立つことで自分を確認したいと思う者。荒々しい自己破壊衝動に駆られる者。あるいは、人助けの精神。その理由は女の数だけ存在するのだろうが、私はどれでもなかった。男に欲せられることによって容易に欲情し、性交が好きでたまらない私は、できる限りたくさんの男たちと一回限りの性交をしたいと願っている。要するに、私は深い人間関係にはまったく興味がないのだ。