複数の視点、そして美人という怪物 〜グロテスク〜

桐野夏生『グロテスク』読みました。あいかわらずものすごい吸引力!ダイソン掃除機も目じゃないです。


主人公の「わたし」は日本人の母とスイス人の父のあいだに生まれたハーフで、ユリコという美しい妹がいる。「わたし」は名門として名高いQ女子高に入学し、やはり高校から入学してきた和恵と知り合う。小学校や中学から上がってきた内部生に比べて和恵はダサく、家は普通のサラリーマンで、父親は世間的な常識でかためたような男。私は悪意を磨くことで学園生活を生き延びる。

妹のユリコはスイスで両親と暮らしていたが、母親が自殺したことをきっかけに日本に戻ってくることになる。ユリコはQ学園の編入試験を受けて合格し、中学に入る。ユリコは同級生の男子と組んで売春を始める。

和恵は大学を卒業して大手建設会社で働き、副室長にまでなるが、夜は娼婦として働き、やがて落ちぶれて街娼として円山町の地蔵の横に立ち、何者かに殺される。

その後ユリコは高級娼婦となり、やがて落ちぶれて円山町で和恵に出会い、和恵と交代で地蔵の横に立ち、何者かに殺される。

ということがまず「わたし」の視点から語られる。私は地味だが賢く、ユリコはきれいなだけで中は空っぽのバカ、和恵は空気の読めない競争心むき出しの滑稽な女、という風に読者は「わたし」から告げられる。

だが、小説がユリコの手記、かつての同級生のミツルとの出会い、和恵の日記とポリフォニックな形で進むにつれ、そこに書かれていることと「わたし」の言ったこととのあいだに矛盾が出てくる。信頼できない語り部。というわけで、「わたし」が実はユリエに対するコンプレックスに凝り固まった、ユリエの影のような存在であることが明らかになってくる。

そして小説の最後では、「わたし」は美男子で盲目のユリエの息子(つまり甥)とともに街に立って体を売る決心をする。

ユリエ、和恵、わたし、チャンなどが語る内容が互いに矛盾し合い、真実がどこにあるかが分からなくなってくると同時に語り部たちについての新たな情報を与えるという仕組みがスリリング。ポリフォニックということに加えて怪物としてのユリエの存在が、ドストエフスキーの小説を思わせた。

以前にも書いた桐野作品の特徴は(ちょっと修正すると)この小説でも健在。つまり、

  • 複数の声に紛れて真実のありかが分からなくなる
  • 解放される女主人公

それにしても、それぞれの語りの内容から浮かび上がる人物像がとてもリアルで作り物っぽくないのはいつもながら驚き。下調べや取材はもちろんしているのだろうけど、現実からとってきたさまざまな事件の状況や、特定の世界(女子高とか)に現れるモチーフ(リズミック体操とか)、物の名前(風俗店「太ももっ子」とか)を真似ればそれだけでリアルになるというものでもないだろう。人物の交わす会話や思考内容は、やはりその人物になり切って想像するしかない。恐るべき憑依能力。というか、想像力が並外れているのだろうか?観察力の問題?記憶力?それとも、何とか「力」の問題ではなくて、たとえば脳で情報を処理するときのやり方が根本的に違うのだろうか?