「物それ自体」の美しさに酔う 〜エレファント〜

ガス・ヴァン・サント『エレファント』みました。

コロンバインの銃乱射事件にインスパイアされた映画。オレゴン州ポートランドの高校の中で、何人かの生徒たちについて順番に、長い廊下や教室や部室やグラウンドを行ったり来たりするのをカメラが延々と追う。

それは別に、一人の生徒とその弟が銃乱射に至る事情を説明するものでもなければ、何か(地域の貧しさとか、教師の横暴さとか)の象徴でさえない。それは即自的な「物それ自体」であり、物それ自体は意味を持たないということが、かえってこの映画を成立させている。

例えば同じ監督の『ラスト・デイズ』では、「ロック・アーチストの自殺」という物語の気配があまりにも濃厚なために、映画のすべてのシーンがその説明か象徴に堕ちてしまっていて、結果、とても退屈で陳腐な映画になってしまっている。

『エレファント』にも説明的なシーンはある。犯人の兄弟たちが見入るヒトラーの映像、人を撃つゲームに興じる弟、兄弟の性的な親密さなど。しかし、その説明の素っ気なさ、ドラマのなさ、それらを圧倒する物それ自体の無意味な美しさが逆説的に、かろうじでこの映画を凡庸から救っているのだ。

変な映画だ……。これは成功作なのか、失敗作なのかも私にはよく分からない。

単にこの映画の監督にはある見解を持ったり問題意識を提示したりするだけの自信がなくて、すべてを曖昧で宙ぶらりんな状態に放置して、どんな事物をも強調せず、思わせぶりに羅列しているだけのような気もする。「この映画に何を見いだすかは観客に任されているんだ」などとうそぶきながら。

物それ自体の美しさを思い出させるという効能はあるには違いない。ただ、物それ自体なんてどこにでもある。思い出しさえすれば、人は自分の身の回りを見渡すだけで、何時間でもその美しさに我を忘れていることができるのだ。わざわざそれを映画館にまで行って金を払って体験することはないはずなのだけど。でも、そのことを忘れていたら仕方ないしね。それに、実際いつもの生活の中では私たちはそれを忘れているしね。強制的に物それ自体を凝視させられるという変な体験も、時には必要なのかもしれない。すると、この映画は現代美術のインスタレーションのようなものか。

でも、物自体がいくら美しくても、それは人にとって無意味であることには変わりない。人は何かの物語に巻き込まれて初めて、意味を感じながら生きていけるのだ。物語や計画(プロジェ)に疲れると、誰かが必ず反−物語や反−計画を持ち出してくるのだけど、それは私たちをどこにも連れていかない。

私たちはイヤでも物語に巻き込まれて生きていくしかないのだと私は思う。