条虫の腹の中、真実真正を求める俺 〜宿屋めぐり〜

町田康の小説『宿屋めぐり』読みました。面白かった!

この作家の小説を決定的に特徴づける「音響効果」のユニークさ、それに、無意味なようでなぜか分かってしまうしかし説明しろと言われても無理な言葉づかいの絶妙さは、本作でも健在です。

!!!以下、ネタばれ注意!!!

主人公の「私」かつ「僕」かつ「俺」は主の命をうけて大刀を大権現に奉納するための旅に出る。しかし途中で白いくにゅくにゅに包まれて「偽の世界」、うそっぱち、まがいものの世界にばまりこんでしまう。

おそらくこの「偽の世界」とは、『パンク侍、斬られて候』に出てきた「条虫の腹の中」のことなのだろう。つまり「腹ふり教」の教義によれば、この世界はある一匹の条虫の腹の中である。したがってこの世界で起きることはすべて無意味であり、人間は真面目に生きる必要などなく、それどころか、できるだけむちゃくちゃなことをやって条虫の腹を揺すった者こそが、この腹の中から出て真実真正の世界へと帰ることができるというのだった。

偽の世界にばまりこみながらも、「私」は真実真正の世界へ戻ることを希求しつつまた「主」の真意を忖度しつつ、大刀を奉納するための旅を続けるのだが、この「私」がとにかく人間的というか、煩悩の多いかつ調子に乗りやすい人間である。酒や肴、女、どんちゃんさわぎという快楽を提供されると容易に懐柔されてしまう。そのうえ、強いものにはしばしば(心の中でどう思っているかはともかく外面上は)へりくだり、弱いものに対しては徹底的につけ上がる性格を持っている。

旅の間中、「私」はしばしば「主」が自分に何を望んでいるかについて思い悩むのだが、それは見方によってはただ「主」への言い訳を頭をフル回転させて考えているだけのようにも思えてくる。けっきょくのところ「私」は損得勘定ばかりしているようにも見えるのだ。

他人の無礼、それも本当に悪意があったのかどうかはっきりしない、「私」の被害妄想かもしれないようなことにはやたら敏感で、害を受けたことをしつこく覚えていてねちっこく仕返しをしようとする。そのくせ、たしかに不注意や正当防衛や不可抗力かもしれないが、自分が他人に与えた害のことについては、ときどき反省はするが、普段はすっかり忘れている。

だがしかし、この「私」が大それた罪を犯しているとも思えない。この小説を読み終えて思ったのは、結局この世界において何が正しく、何が間違っているかを決定することができない、それは常に不確定で、場所や時間によって真偽も善悪も美醜も裏返ってしまう可能性がある、ということだった。

つまり、数学の定理ならいざ知らず、現実のこの世界の中のある人のある行為が「真実真正」かウソっぱちかなんて、突き詰めて考えるほど分からなくなってくる。だから裁判でだって、結局根拠としては常識というものを持ち出してくるしかない。法律の条文で禁止されているものだけが罪に問われるなんて、それこそウソっぱちだ。常識で考えて罪に問われるべき行為をコンパクトな公理で切り取るなんてことはたぶんできないし、それをやろうとしても例外が続出して結局多くの罪については個々に箇条書きにするしかなく、それでも常に、常識では罪だけれども法律的には罪だと決定できないような種類の罪が、つねに存在するというのがゲーデルの不完全定理である。(まあそのような法律体系が数論を含むなら、の話だけど。)

考えれば考えるほど分からなくなることは他にもある。例えば人の美醜とか、頭の良し悪しとか。

思うに、現実のこの世界の中の重要な論点は、どれもみな決定不可能なんじゃないだろうか。言いかえれば、その場その時の「常識」でもって判断するしかないんじゃないだろうか。

数学の形式的公理体系やコンピューターのアルゴリズム(一般帰納関数)では決して実現できないこの「常識」とか「悟性」というものは、そう考えると不思議なものだ。いったいどうやったらそんな能力が持てるのか。常識ってバカにされることが多いけど、実は人間に備わる超能力なのではないかとさえ思えてくる。

あと、人間や人の一生(生き死に)というものにたいする覚めたスタンス。痛みにたいする覚めたスタンス。徹底した反ヒューマニズム。自分を自由だと思っている人間が、神の前では虫けらのようなものにすぎないということが分かったときの、もう笑っちゃうしかないような脱力した感じ。カフカの門番と門の前で待つ男のような、一方的なようでありながら、実はたがいに依存しあう円環状に閉じた関係。そういったモチーフや感覚こそが、まあかつてなかったというものではないけれど、今の時代に特徴的な、現代的なものだと思った。