「ドラマ」の拒否 〜パラノイドパーク〜

ガス・ヴァン・サント監督『パラノイドパーク』みました。

あらすじ(ネタばれ注意)

アレックスはスケートボーダーたちが集まるパラノイドパークで知り合った男と夜、列車に飛び乗る遊びをやりにいき、警備員に見つかる。警備員が懐中電灯で殴ってくるのにアレックスが反撃した拍子に警備員はバランスをくずし、ちょうど隣の線路にやってきた列車にひかれてしまう。(腰のところでまっぷたつにちぎれた警備員の上半身だけがずりずりと地面を這うシーンがあるが、それはさすがにないでしょう!虫じゃないんだから。)学校には刑事がやってきてスケーボーダーたちにいろいろ聞く。アレックスの両親は離婚しかかっていて、別居している父に相談しようとするがやめてしまう。アレックスは恋人と別れて別の女の子と仲良くなり、その子に「悩みがあるなら手紙の形にして書いてみなよ。私に向けて書いて」と言われ、事件の一部始終をその子に向けた手紙として書いてから、たき火にくべてしまう。という一連の流れが、まずいくつかの時点のみを抜き出して謎めいた形で、次に時系列で詳しく描かれる。事件は解決しないまま映画は終わる。

映像と音楽について
この映画は映像が美しい。緯度の高そうな感じ。手持ちのビデオで撮ったような荒く色の飽和した映像と、落ち着いた色調の繊細なカメラの映像の組み合わせ。スケートボーダーたちの影は長く、日光は淡い。ハロウィーンがいかにも似合いそうな町。黄色やオレンジ色の落ち葉がしっとりと朝露に濡れる感じ。海も近く、高いビルも幅の広い川もあるようだが、これはどこの町なのだろう?
映画を通して被写界深度の浅い、きれいにピンぼけした映像が多い。また、焦点距離を固定して、ぼけている背景の中を人物が近づいてくるとその人だけにくっきりとピントが合ったり、あるいはそこだけピントがあっていた人物が遠ざかると全体がぼけるといった「写真的な」手法が多用されている。
音楽もいい。アンダーグラウンドっぽいものからヒップ・ホップ、ポップス、ブルースまで、ちょっとなんでもありという感じだが。とくに最初のあたりの音づくりがよかったと思う。


物語について
特徴的なのは「ドラマ」がないということ。まず、思春期の若者の学校や家庭での生活を描くアメリカ映画には必ずといっていいほど登場する、体の大きくてかっこつけのいじめっ子とか、飲んだくれの父親、あるいはヒステリックな母親などのお決まりのキャラが出てこない。父親も母親もいい人で、『スタンド・バイ・ミー』のような悩みを抱えた親友も、言葉遣いが汚い不良たちも、いけすかない教師もいない。この手の映画としてはとても不思議な世界なのだ。そもそも、主人公のアレックス以外にその内面を詳しく描かれる人物がいないし、いやそのアレックスにしても、内面を示すはずの記号としての仕草や言葉は描かれるけど、それが実に形式的かつあっさりとしているために、その内面はちっとも伝わってこない。
アレックスの生活環境の「すさみ」についても同じことが言える。「パラノイドパーク」で寝泊まりする若いホームレスのような人々の存在、離婚の多さ、学校の中にパトカーがやってきて生徒が後ろ手錠に逮捕されていくのに他の生徒たちは誰も関心を持たないシーンなどが描かれるが、やはり感情には訴えかけてこない。そういったことをとっかかりにして登場人物の感情を波立たせることを、この映画は頑固に拒否しているようにさえ見える。
アレックスは子供と大人の中間、いや、ちょっと子供寄りにも見える、ルネッサンス絵画の美少年のような両性具有的な顔を持つ男の子。その丸い顔や大きな目、それに赤くなった頬や鼻の頭や唇がとても可愛らしい。ところがこのアレックスは表情がありそうであまりなく、感情が外に現れない。何かを隠しているようにも、自分だけの秘密に悩んでいるようにも見えない。実際、何も考えていないようにしか見えないのだ。だから刑事にも疑われないし、映画をみているこっちだって何を考えているのかよく分からない。事件の現場の写真を見せられてトイレで吐いたり、事件の直後にシャワーの中で両手で顔を覆ったまま崩れたりするシーンがあるが、感情が伝わってこない。ここでもやはり、通常の映画におけるような「ドラマ」の発生をかたくなに拒否しているように見える。(あるいは単に失敗しているだけなのか!?)
結局アレックスは父親にも恋人にも真実を打ち明けず、したがってそこから生まれたはずの強い葛藤などを抱くこともなく感情の爆発もなく、すべての感情の動き、ドラマの発生を映画自体が抑圧しているかのように物語は進み、何も起こらないまま終わるのだ。
新しいけど、妙な映画だ……


それにしても、この夢見る高緯度の光線に包まれたまったりとした町は悪くない。映画のあと、テレビのニュースで日本の町の映像を見て、映画との差に愕然とした。
どうしてこんなに汚らしいのだろうと思って見てみると、その理由は一目瞭然だった。安っぽい壁材でできたアパート。外の壁にむき出しに取りつけられた灰色のプラスチックの樋。小さなまどの上に斜めに取りつけてある汚らしいプラスチックの浪板。さびた鉄の階段。その上を覆うこれまた透明なプラスチックの浪板。窓の外につけてある柵は、白いペンキが鱗のように剥がれてそこから赤錆が流れ出している。そしてあの、灰色のコンクリートブロックを積み上げた塀、……。
日本人は自分の住んでいる建物の外見に興味がないのか、町の美観に関心がないのか、やる気がないのか、金がないのか。どのような必然性があって生まれてきたものなのかは知らないがとにかく、ちょっと空いた土地に次々と、ただ家賃をせしめるためだけに建てられる、美的考慮ゼロの安普請のアパート(私もむかし住んでたことがあるけど)、あれだけはホントひどいと思う。
日本の建設会社や建材メーカーは、日本の風土にあった安くて美しい建材(欧米でのレンガのような)を開発すべきではないだろうか。また、プレハブのアパートのようなものこそ、デザイナーや建築家が知恵をしぼってリ・デザインすべきではないだろうか。

私はせつに思うのだが、いままで日本人が膨大な貿易黒字として稼いできた富は、今我々が住み暮らしている町並みや景観の美しさとして固定すべきだと思う。景観の美しさなどは不安定ですぐに消えてしまうというのは間違いだと思う。一度美しく人の手で作られた景観こそ、ドル建ての債券などよりはるかに長く残るのではないだろうか。そのためにはいい加減、どんな狭い土地にでもその所有者が自由にどんな建物でも建てていいという慣習はやめるべきだ。町や景観はみんなでゆっくりと作り上げていく作品なのだという観点が必要だと思う。