アメリカ風堕落 〜マグノリア〜

ポ−ル・トーマス・アンダーソン監督の『マグノリア』みました。

最初の三分の一はよかった。どんどんと緊張が高まっていくのに比例して、クライマックスへの期待も高まっていく。ところがそのクライマックスはなんだか散発的にやってきて、もうすぐ映画の終わりかと思ってからもまだまだ映画は続き、しかもどんどんとくどく、説明的に、思わせぶりに、つまり退屈になってくる。ベッドで死にかけている金持ちの老人が、こちら(観客)がすでに知っていることを感情たっぷりに話すシーンには、悪い意味で驚いた。カエルが降ってくるあたりで持ち直すが、それもそれだけのエピソードで、そこから、それぞれの登場人物の物語が一つずつ、それも実にありきたりな、ほとんど「お涙ちょうだい」といったやり方で閉じられておしまい。冒頭の偶然についてのエピソードともたいして繋がらない。

死にかけている金持ちと結婚した若妻とか、むかし娘に性的虐待をしたテレビの司会者とか、経済的には何の問題もない甘えきった人間たちがドラッグや死と戯れるという「アメリカ風堕落」の中でウジウジと悩む。まわりの人間に悩みを打ち明けたり、それまで家族にも隠していたことを白状したりするが、それも都合よく許しをもらうためである。許してもらえないとなると、早速薬やピストルという苦しまない方法で自殺しようとするのだ。ようするに自分のことしか考えず、どんな苦しみも避けたいという奴ら。そんな奴らがいろいろもがくのをみて、いったいこっちは何を考え、何に感動しろと言うのか。ただただ退屈で醜悪なだけだ。

いや、人間の弱さを描いて成功した映画はたくさんある。この映画は、それを描く側(監督)の立場が曖昧すぎ。厳しさがない。結局みなその弱い部分、醜悪な部分も含めて、安易なやり方で許されている感じ。性的虐待の司会者は自殺しておしまい。むかし癌に苦しむ妻と子を捨てた死にかけの老人は息子に許されておしまい。老人の若妻は自殺しかけて助かっておしまい。(この芝居気たっぷりの若妻の「悩み」は特に意味不明である。ただ自分に酔ってるだけとしか思えない。)いったい何が言いたいのか。外の人間には何の関心もわかないし理解もできない内輪の「悩み」とやらを延々と見せられるこちらとしては、うんざりするしかない。


ある意味、これがアメリカという国の縮図なのかもしれない。むちゃくちゃなことをしておいて、大勢の人を傷つけておいてから、反省する。反省している自分に酔う。むかし傷つけた人たちに謝りにいくわけじゃない。それはプライドが許さない、というか、そんなめんどくさい、苦しいことはしたくない。ようするにその時々に好き勝手をしているだけの、甘えきった態度。おまけに下司野郎のくせに虚勢の張り方だけは一流。さんざん人を苦しめておいて、自分はふかふかのベッドの上で、看護人にかしずかれながら死ぬ。いろんな「悩み」を悩んだり、懺悔のまねごとをしたりしながら。あ〜ホントむかつく。

これだけの長いシナリオを用意し、俳優を使い、このような長々とした映画を撮るのは並大抵の苦労ではないだろう。群像劇にもちゃんとなっている。この監督に才能があることは間違いないのだろう。だが、はっきりいってこの映画は好きになれない。退屈だし醜悪だし、バカバカしくもある。唯一心が動いた警官の恋のエピソードだけでは、これだけの腐臭を薄めるには不十分だ。