クローバーフィールド

『クローバーフィールド』みました。

得体の知れない敵が突然攻撃をしかけてきて、自分たちの住む町が破壊され、仲間たちが死んでいく。軍隊もこの未知の敵にはまったく歯が立たない。こちらは一方的に殺されるばかりで、主人公たちはただただ逃げまどう……そう、この映画は、このブログでもつい一週間前に取り上げた、スピルバーグの『宇宙戦争』にそっくりなのだ。

これらの映画が従来のパニック映画と大きく違うのは、敵を倒すヒーローの不在だ。こんなマゾヒスティックとも言える映画がアメリカで立て続けに撮られるのには、何か理由があるのだろうか。

ただ、この映画と『宇宙戦争』とではちがう点もある。

  • 宇宙戦争』では子供たちを守ることが目的だが、この映画では恋人を救いにいくことが目的。
  • 宇宙戦争』では主人公たちは生き残るが、この映画では死んでしまう。
  • この映画は主人公の友人がホームビデオで撮影した記録という形をとっている(ブレア・ウィッチのように)。

マンハッタンが破壊されていく様子はたしかに見応えがあった。てっぺんのとんがったビルが911のときのWTCそっくりに崩れ落ち、砂塵の雲がモクモクと通りの向こうから迫ってくる。ドラッグストアに隠れると、店のショーウィンドウの前を砂煙が流れていって、その濃さに店の中は夜のように暗くなる。これも911の再現だ。つぶれた車、折れ曲がった信号、そしてすべてを覆う砂塵のために、見慣れた街角が一変する。

だが、この映画の恋愛物語の「臭さ」はどうだろう。軍隊の指揮官に主人公の男が「私は彼女を探しに行きます。でもあなたの立場も分かる。止めたければ私を撃ち殺してください」とか言って、すると指揮官は「おれもどうかしている」とか言いながら男を助けたりする。さっさと撃ち殺してやれよ!どこまでも型どおりの騎士道物語にはリアリティがまったく感じられなくて、バカバカしいばかりだ。そもそも当事者の男と女がいかにもマンハッタンの高級アパートメントに住む型どおりの若者、それ以外には属性を持たない人間として撮られていて、彼ら自身にすでにリアリティがないのだから、その恋愛にリアリティが感じられないのも当然のことなのだが。

ブレア・ウィッチもそうだったけど、「当事者によるビデオ撮影」という形式を取る映画は、なぜ物語がこうも「臭い」のだろうか。やはりシナリオのせいなのか。つまり、当事者のビデオ撮影という形式を選ぶような監督は、シナリオのセンスも臭い、ということなのだろうか。確かに、『宇宙戦争』をもし「当事者のビデオ撮影」という形式で撮ったとしたら、こうも臭くはならない気がする。結局、戦争という異常な状況の中に投げ込まれた人間についての想像力の違いなのかもしれない。この映画は結局のところ、化け物によるマンハッタンの破壊しか撮っていない。『宇宙戦争』は、むしろそのようなせっぱ詰まった状況下に置かれた人間たちを撮っていたのだ。この映画に破壊シーン以外の見所がないのはそのためなのだ。

あと、「当事者によるビデオ撮影」ということ自体の嘘臭さというものもあるのかもしれない。自分でビデオを撮ったことのある人なら、移動しながらビデオを撮り続けることがいかに大変なことか分かるだろう。ビデオで撮影するということは、それだけでとても神経を使うことなのだ。そうして苦労して撮っても、あとで見返すと、ほとんどは退屈な、使えない映像なのだ。この映画のように都合良くナレーションなんて入れられないし、会話している他人の音声なんてほとんど聞こえない、ましてや化け物と戦いながらその映像を撮るなんてできるはずがない。

もちろん、そんなことはこの映画を撮った人にとっても当たり前であって、「当事者によるビデオ撮影」というウソをどこまで本当っぽく見せるかが勝負なのだから、「実際にはありえない」ということは、他のどんな映画の場合と同様に、この映画への批判にはなりえないのだけど。

それでは、リアルな「当事者によるビデオ撮影」による映画というものはどういうものだろう。延々と映される退屈で無意味なシーケンス。何の説明もないただの映像の断片の連続。化け物に襲われているさなかのような肝心の場面の映像は一つもなくて、その前後だけが映されている。そんな、説明なしの映像の断片だけで分かりやすい筋を作り、そこで何が起きているかを観ている人に理解させ、しかもそれを面白い映画にするには、よほどの工夫が必要だろうね。