対談形式と政治 〜シネマの記憶喪失〜

『シネマの記憶喪失』読みました。『文學界』に2005年から2006年にかけて連載された、阿部和重中原昌也による対談形式の映画批評です。


なんだかね……。こういう映画批評って、いったい誰のためにやってるんだろう?と思った。


中原昌也は「シネフィル的なことに興味はない」などと言うけれど、二人とも大量の映画を観ているのだから、やはり「大量の映画を観ている人が評価したくなる」映画を評価するようになるのは自然の流れではないだろうか。で、結局それがシネフィル的ってことではないのだろうか。

それに、いくらたくさん映画を観ていても、それでその人の感性が必ず研ぎ澄まされると言うわけでもない。別に「感性」が「知識」よりも偉いとも思わないけど、しかしこういった対談では、『阿部和重対談集』でもそうだったけど、対談する人の政治的な感性が如実にあらわれるから怖いね。

思うに、大量の映画と同時に大量の映画批評を読み続ける人間が映画を批評すれば、必然的にそれは政治的なものにならざるを得ないのではないだろうか。簡単に言えば、自分が常日頃評価していると公言している批評家や、逆にいつもボロクソにけなしている批評家の意見、あるいは友人、仲間たちの評価の間でバランスを取るようになるということだ。


その点、阿部和重はできるだけ言葉で的確に述べられる事柄だけに自分の批評の範囲を限定しようとしている。また、彼は映画そのものにも負けず劣らず、それについて言葉で言えること自体に興味を持っているような気がした。つまり、映画は単なる触媒で、自分の創り出すものがメインだと。それによってオタク的内輪話におちいることも回避しようとしている、そんな気がした。

また、彼は確実に映画批評の政治性も意識していて、政治から完全に離れているかどうかはともかく、少なくとも「意識しているよ」というサインは出している。

そのような身振りについて意地悪な言い方をすれば、客観的に自分を眺めることによって将来起こりうる危険を察知して、狡猾に予防線を張っておく、と言えないこともない。だが阿部和重のそういうところに私は強くシンパシーを感じるのだ。要するに真面目なんだよね、彼は。

多くの人に受けいられらる面白い小説を書くためには、そのような敏感さはきっと必須のものなのではないだろうか。