滅びゆく知識人の自画像 〜アワーミュージック〜

2004年製作、ゴダール『アワーミュージック』みました。

ひどい。これは最低の映画です。またネガティブなことを書きます

いや、私も考えましたよ。何もブログにわざわざ気に入らなかった映画のことまで書くことはないのではないかと。実際、そういう立派な心がけのブロガーさんもいますねえ。書く側の主観的な感想で、読んだ人の映画を観る気をそぐのはいかがなものかと。

確かに、以前このブログに書いた『天才マックスの世界』の場合はその通りです。あれはけっきょく趣味の違い、主観的な好みの違いに収斂するんであって、つまりテキサスの私立学校出身の裕福で才能ある男と、日本の偏屈で貧乏なサラリーマンの趣味の相違にすぎない。

だが今回は違いますよ。今回の私は、マジで義憤に駆られてこれを書いている。というのもウェブをさらっと検索した限りでは、この映画に対して否定的な評価は皆無なわけです。そりゃあダメでしょう、さすがに。一人ぐらいはこの映画を観てむかついて、その感じたままを書いとかないと。影響されやすい人が勘違いすると大変ですから。

◇ ◇ ◇

この映画の感想を短く言うとこうです。フランス知識人好みの哲学的詩的言葉遣いおよび革命的言辞の繰り返しによる、思わせぶりなだけで内容空疎なコラージュ。こんな映画を観ても人は変わらないし、戦争もなくならない。いや、むしろ戦争に加担する映画ではないのかと私は思いました。そして私の結論:ゴダールはもはやただの耄碌したcultural chauvinistのおっさんにすぎない。

私にはこの映画全体が、フランスの滅び行く文化系知識人の暗い側面の隠喩に見えます。そしてそのフランス知識人を作り出したのは、フランスの高等教育制度ですよ。何が言いたいかというと、要するに大学やらグラン・ゼコールなどの研究機関やらに雇用され、国家によって税金で養われている知識人というものは、結局その一番の関心事は、国からいかにして金を引き出すか、引き出し続けるかということなわけです。

そこで、いかに自分の哲学的詩的言葉遣いを洗練させ、無意味から金を得るか、そしていかに他人の批判を封じるか、それが彼らの第一番の死活問題であり、知恵と工夫のしどころでもある。いかにして権力を批判しながら権力にすり寄るか。誰も読んでないような厚い哲学書の名前をあちこちに散らしておくのも批判を封じるためで。

でも彼らの「哲学」がじっさい何の役にも立たないのは証明済みだし、またかれらの言辞のほとんどがわざと難しく書かれてあったり、まるっきり無意味だったりすることも、すでに指摘されていることです。

もちろんフランスの大学その他にだって、そんな状況を苦々しく思う人はいるにはいますが、所詮大きくまとめれば仲間同士、互いにカルテルを結んで領土保全を期すのが一番得なわけです。

ところで話はそれますが、私は昔、インドに単身で乗り込んでミネラル・ウォーターの製造販売会社の設立を目論むアメリカ人ビジネスマンのドキュメンタリーを見たことがあります。彼はまず地元の特権階級と結びつき、現地の法律まで自分の都合のよいように変えさせて、例えばミネラル・ウォーターで言えば地元の企業が水を売れなくなるように法で定める水質基準を引き上げさせて、そんなあくどいことをしてビジネスに役立てるわけです。いや、あくどいといってもそれは日本人から見たときの感想で、このドキュメンタリーに出てたアメリカ人ビジネスマンはあくどいなんてさらさら思ってないし、むしろ胸を張ってるわけです。つまり彼らにとっては、掛け値なしに「金儲け」=「善」なのだと知らされて私は頭がくらくらしました。

さて、この映画を作ったゴダールもそれと同じですよ。つまり、フランス知識人がその空疎な韜晦哲学によって金儲けを続けることができるようにするための地ならし以外に、この映画の目的はあり得ない、そう私は感じましたね。ゴダールはフランス文化、フランス知識人たちのトップ・セールスマン、ただそれだけ。フランス流の人文学的な、哲学的詩的な知的生活を世界の人々に対してブランドとして魅力的に見せることが、そのまま彼らの収入を保証することになるわけです。

詩の朗読、哲学的議論。床の上に山のように積み上げられた本(当然焚書を連想させる)に、まるで舞台俳優のように歩み寄る。ラシーヌのフェードル、レヴィナスブランショムージルレヴィナスなどなどお決まりのラインナップから引用、あるいは本自体の映像を意味ありげに見せる。誰もレヴィナスなんて読まないから、文句も言えないという仕組み。ここでもフランス人文系知識人のあこぎなテクニックが随所に使われているわけです。エンドロールには映画の中で引用された難解な哲学書を書いた人たちの名前を並べる。もう吐き気がします。

念入りにもあともう一つの文句の言えない仕組みとして、その編集(とくに音声の)がある。なんか複雑なことをしているが正確にそれが何かは観客には当然言えないので、またちゃんとした批評ができないという罠。

夜のサラエボの街を走る路面電車の映像は情緒があるが、あれは街に情緒があるのであって、別にこの映画を製作した人が優秀なわけじゃない。もちろんモンタージュのセンスという問題はあるけど、映画の頭での戦争の映像のモンタージュについて言えば、その出来はHiroshima, mon amour(最低の邦題:『二十四時間の情事』)のアラン・レネの足下にも及ばないと私は思う。

映像にはエレガンスがないとは言わないが、フランスではエレガンスは端的に権力なわけです。サン・ジェルマン・デ・プレ辺りでカフェのテラスから道行く人を眺めていればすぐに分かる。そしてその一つの象徴が、この映画の中に出てくる、大使館でシャンペンらしき酒を飲み、突然見苦しいダンスなんか始めるあのシーンですよ。給仕の男の無表情がクローズアップで無意味に強調されますが、あれは私の考えじゃあ、のちのちの言い逃れのための種ですな。つまり、あのシーンの通俗性(ブルジョワ性でもいいけど)を批判されたときに、あの無意味な給仕の顔のアップを指さして、わけのわからんことを言っておけは批判を煙に巻けるってわけで。


まあそんな、国家お抱えのフランス知識人たちが長年かけて編み出した韜晦のテクニックの連続でこの映画はできている。だが、なにせその中身は空っぽで、ただの主観的、感情的なコラージュ、モンタージュにすぎないのだから、それが人を「フランス流」に洗脳することはあっても、それが何か今まで見えなかったものを観客に見えるようにしたり、悪を暴いたり、ましてや戦争をとめたりすることなどあり得ない。要するに人の役には立たないわけです。役立たず。彼らフランス知識人それに彼らの作品は無能。まずそれを認めようよ。

私は本気ですよ。げんに彼ら(ヨーロッパ知識人)は自分たちのすぐ身近で起きている戦争を止められず、この映画の中でも「ロシア語はダメな言語だ」とか言って、かえって対立を煽っているだけではないか。

このロシア語への言及については、ホント知識人にあるまじきバカなことを言っているので私は呆れました。ゴダールは映画の中でオルガにこう言わせてるわけですよ。

ロシア語はやめて
信用できない言語よ
その構文のせいで――
ロシア人の悪への思い込みが強まり
彼らを良心から遠ざけているから

都知事がいつか、「フランス語は数を勘定できない言葉だ」とか言って物議を醸したことがありましたが、あれと同じレベルなわけですよ。いや、単に数が数えられないということより、構文のせいで良心が持てないという方が、偏見としてはより悪質ですよね?

念のために言っとくと、もちろんここでのオルガの発言は反語(オルガというのはこんな馬鹿なことをいう人間なのだ、と実は言いたいとか)などではないわけですよ。つまり、この映画はもったいぶった哲学的詩的言葉遣いで満ち満ちているわけですが、その実質的な意味内容はというと、例えば上のような感情丸出しの偏見を煽る見解なわけです。

そうすると、最後の「天国」のシーンで、天国をアメリカ兵が守っているというのも、ひょっとして皮肉でもなんでもないんじゃないか、という疑いさえ起きるわけです。

最低ですね……

いや、もちろんロシアだってろくなもんじゃないですよ。スキンヘッドはいまだにロシアの大都市で外国人を殺しまくっているし。ロシアのコサック部隊なんて、できれば一生出会いたくないやつらですよ。彼らに比べれば、イラクに駐留するあの、少女を強姦した上にその家族も皆殺しにするようなアメリカ軍のほうが「まだ」ましでしょう。英語も通じるし(笑)。まあ、究極の選択ですけどね。


世界情勢に引きつけて言えば、ゴダールのような輩にいまだに知識人を代表されているようじゃ、ヨーロッパ、EU、これからはダメになる一方かも……

EUって、もうあれですよ、スターウォーズの共和国、あの、最初のうちはよかったけどだんだん悪くなって最後には悪の帝国になる、あれ。コソボの強引な独立工作、そしてまさに今問題になっているグルジア問題への自分を棚に上げての対応なんかを見ると、もうそんな予感がします。彼らは戦争が好きだし、覇権争いが好きだし、それをやめる気もないんですね。彼らは過去の戦争から何も学ばない。それが彼らの変えがたい性なんじゃないかと。

なにしろ彼らにはワイマール共和国という前例があるからね。今ではドイツもEUの中の一国だけど、それでワイマール共和国的な(突然悪の帝国に豹変するという)要素がEUの中に溶解して消えてしまったのならいいですが、逆にEU全体にその毒が行き渡った可能性だってあるしね。何にせよ、今後EUは用心するに越したことはない。彼らはきっとまたどっかで戦争を始めるだろう。そのときに重要なことは、我々がそれに巻き込まれないことだ。


私はたぶんもう二度とゴダールの映画は観ないと思う。


まあ、幸いにしてゴダール的なものは滅びつつあります。なににつけ変化の遅いフランス社会だけど、あと十数年もすればすっかり片がつくでしょう。その暁には、「かつてはこんな滑稽な知識人がそれなりに売れていたのだ」という歴史上の事実の検証に、この映画が使われることになるのだろう。

それにしてもウェブを見ているとこの映画の評はほめているものしかないね。ロシア語についてのくだりだけでも、「ちょっとおかしいんじゃないか?」って言う人がいてもいいのに。ひょっとして、ゴダールの映画って、なんかイヤ〜な感じのバリアで守られてる?

さて、日本のウェブには同意見の人がいないようなのでアメリカまで行くと、いました。私が全面的に同意できる感想を述べている人が。やっぱりアメリカは自由の国だ。

http://www.amazon.com/Notre-Musique-Sarah-Adler-II/dp/B0007Y8ABU

から引用します。ちょっと長いので翻訳はしません。

Godard has nothing left to say., June 7, 2005
By Angry Mofo "angrymofo"

Notre Musique is the newest work by the legendary French director Jean-Luc Godard. The film is shot in a documentary style, but it is not entirely non-fictional; it is neither a documentary nor a feature film, but rather, a sort of cinematic treatise. Godard's chosen subject is war, and he breaks it down according to a rigid, three-part structure. The parts are entitled "Hell," "Purgatory" and "Paradise," in reference to Dante; presumably, Godard's objective here is to show how humanity might escape "Hell," or the horrors of war, by cleansing itself in "Purgatory," and thereby finally attain "Paradise."

The first section consists of a montage of war imagery, from all countries and time periods: Holocaust victims, cowboys and Indians, French grenadiers, the American North and South, and so on. The camera flies between these disparate scenes for a few minutes without staying on any one image for long. Finally, as the screen fades to black, a voice informs us, "Death can be viewed in two ways: the possible of the impossible, and the impossible of the possible."

Is Godard trying to say that death is impossible, or that we wrongly perceive death as impossible, or that death marks the moment when the impossible becomes possible, or what? And, supposing any of those were true, so what? What conclusions should we draw? What is the significance of this cryptic observation? Godard leaves it unexplained, providing us with the first of many examples of the way in which this film uses horrific human catastrophes as a backdrop for empty, vague, often arrogant moralizing.

The second section takes place in Sarajevo, the capital of Bosnia, which was besieged by the Bosnian Serb Army during the nineties. Godard now introduces a plot: a literary conference is taking place in this city, and famous artists are going there to discuss how war might be averted through art. Among them is a young Israeli woman named Olga (a fictional character), who travels to Sarajevo to gain insight into the Israeli-Palestinian conflict. Godard wishes to present this conference as a blueprint for the moral and intellectual "Purgatory" that mankind has to go through in order to end all war.

But why does this conference have such far-reaching importance? For instance, why is it relevant to the Israeli-Palestinian conflict? Well, someone in the film asks that very question. The answer given by the organizer of the conference is, "I wanted to see a place where reconciliation was possible."

The presumptuousness of this statement is offensive. Godard is a European from a country that was itself partial in the conflict. Here he represents a side that exerted heavy influence, of a violent and destructive nature, on the outcome of that conflict. Without discussing or even acknowledging this fact, he is announcing, in part to the same people that his side helped bomb, that reconciliation is now possible for them. But why should they accept what he says? Is he, perhaps, merely saying that the violence has died down, and that now it is possible to begin rebuilding? But that isn't true: recall the clashes in Kosovo during March of 2004, when thousands of Serbs were driven from their homes, while Western forces were helpless to do anything.

Later, when the camera pans over a dilapidated marketplace, Godard opines (again through Olga), "The defeated are the truly lucky ones." So was Carthage "lucky" to be defeated by Rome? Please tell me this is a joke.

Then there's a scene in which Godard himself gives a talk for some film students in Sarajevo. He shows photographs of Israelis and Palestinians; then, for no reason whatsoever, he shows two stills from some black-and-white American film or other, and says that their similarity proves that the director of the film "did not comprehend the difference between men and women." In between these different trains of thought, he utters bizarre aphorisms, such as, "We say to let the facts speak for themselves. But Celine once said, 'They will not for much longer.' That was in 1936," or, "It's the accountants who do all the books. Balzac spoke of a Great Ledger." What has this to do with the Israeli-Palestinian conflict? And what has that to do with film class?

But that's just the norm for this film, which is full of risible non sequiturs. Consider one scene, where some guy speaks to Olga in Russian, but she cuts him off, for this reason: "I distrust the Russian language. In fact, I only regret that the powerful notion the Russians have of evil alienates them from conscience." Actually, Russian art, far from being "alienated" from conscience, often features it as a central theme; just recall the novels Crime And Punishment and The Brothers Karamazov, or the play Boris Godunov. So how does Godard have Olga justify her inane assertion? She goes on to say, "It is due to the syntax [of the Russian language]." That is, Godard claims that the mechanics of a language serve to "alienate" the speakers of that language from moral reasoning. I hope you aren't going to ask for examples, because Godard doesn't give any.

It goes on. Olga states that "suicide is the most important philosophical problem." Then why all the talk about war? Elsewhere, an American Indian walks into the ruins of a library and demands to know when the mistreatment of his people will end. A legitimate grievance, possibly, but what is the dude doing in Sarajevo? Some other guy says, "I only believe stories whose witnesses would have their throats cut." Is he saying that he only believes first-hand accounts of war, or that he believes that people who tell stories should be willing to die for them? Either way, what's his point?

The third section shows Olga sitting with a soldier in a quiet glade, in a symbol of humanity achieving peace. But, by this point, after sitting through so many lifeless, artificial pronouncements, it's hard to believe that Godard is all that concerned with humanity.

とにかく、私はこんな映画をありがたがる人間は絶対に信用できませんね、たとえそれが一流国立大学の元総長などであっても。