犬はお巡りなのだから迷子にはならないはず 〜ABC戦争〜

阿部和重『ABC戦争』読みました。読んだのは二話追加の新潮文庫の方。

冒頭で「わたし」は山形新幹線の中にいる。列車による移動、東北、戦争、ということから『吉里吉里人』のような小説を予期していると、話題はいきなりトイレの中の落書きのことになり、それがYという文字、山形県、さらには映画についての考察につながり、思考の暴走につられるようにして視点はふらふらと上空へ移動して、山形の若木(おさなぎ)山という山の中途に、ようやく種田秀史郎という「やくざ者」を捉える。はあ。やっと人物が登場したぜ、と思って喜んでると、彼は「いともあっさりと死んでしまう」。

秀史郎はうつ伏せに倒れたまま、もはやぴくりとも動かない。あたりまえである。死んでいるのだから。では、このチンピラの死体を、これからどのように扱えばよいのか。

もちろん読者は質問に対する答えを本気で考えなくても、ページの番号順に、上から下へ、右から左へと文をたどることによって、作者があらかじめ按配した順序でもって物語は進んでいく。『阿部和重対談集』の中で阿部和重は、「小説ではどんな順番で物事を見せていくかは自由なのだから、その性質を利用していきたい」というようなことを語っている。

小説を読むとき大抵の読者は、作者があらかじめ用意した順番に自動的に従わざるを得ない。考えてみれば、これはすごい権力であるとも言える。


たとえば『アメリカの夜』では、小説はいきなりブルース・リーについての考察から始まる。そしてそれが「唯生」の書いたノートであって、小説の語り手である「私」がいまそれを読んでいるのだと分かる。それからその「私」はおもむろに、「哀しい男の話をしよう。その男は、中山唯生という」という前書きとともに唯生のことを語り始めるのだが、さんざん唯生のことを他人事のように覚めた口調で語ったあげく、「中山唯生という名のもとにこれまで語られてきた男とは、私自身なのである」と明かされるのだ。さらにその私は、本名は「和重」であり友人からは「シゲ」とよばれる人物であって、そのイニシャルSをとって

エスよ、と、まるで日刊ゲンダイに連載されている劇画『やる気まんまん』の主人公が、その絶倫ぶりで活躍する「オットセイ」と名のついたおのれのペニスへ、「オットよ」と話しかけるように、唯生は私に声をかけ

るに至るのだ。


以下、ストーリーの要約または感想。


ABC戦争
T校のある生徒による<手記>や、友人の湯村の証言を元に、「わたし」は「ホンセン」における不良学生たち同士の戦争という出来事の再構成を試みる。ところが、曖昧な証言を苦労して集め、ためつすがめつ分析してみて分かってきたことといえば、実は戦争などなかった、事件発生のきっかけも曖昧なら、その終結も曖昧であり、抗争のために集めた資金は遊びに流用され、すっかりやる気をなくしているうちにいつのまにか忘れ去られていたという、実に阿部和重的な「真実」だった……そして本体の抗争の中心からは遠く離れた、ほとんど戦争とは関係がないとも言えそうなぐらいの周辺部において起きた突発的な事件の中で、ヤクザ者が一人死ぬ。


公爵夫人邸の午後のパーティー』
シナリオを書いているとどんどん長くなっていってシナリオの枠に収まり切らなくなったのが、阿部和重の小説を書き始めたきっかけだというようなエピソードが『対談集』などにあったと思う。その、膨らませすぎて枠をはみ出してしまったシナリオのような小説。4人組のギャングはルパン一味?黒ずくめの男の独白、それに銃の撃ち合いのシーンがすばらしい。カヌーに乗っていると川幅がふいに細くなり、スッと急流に吸い込まれていくあの瞬間にも似たスピード感!カヌーなんて乗ったことないけど。


『ウェロニカ・ハートの幻影』
風邪で熱にうかされる男の語る話と、冷たく突き放しながらそれを聞く女。その関係は『新宿 ヨドバシカメラ』、村上龍、あるいは大江健三郎の『みずから我が涙をぬぐいたまう日』の男とその母親を連想させる。
ところが男は彼が住む部屋でむかし自殺した男の霊に取りつかれていて、やがて「私」の前から失踪する。「私」は男のかわりに不動産屋になぜか命を狙われることになり、やがて謎の罠にはまってしまう。
私と男(というか男にとりついた霊)との会話の部分はかなり島田雅彦っぽいと思う。