散文的 〜ミステリアスセッティング〜

阿部和重『ミステリアスセッティング』読みました。

これほど感情をかき回された小説はひさしぶり。「引き込まれる」って表現が生っちょろく感じるほど。はやく話の先を知りたくて、ページをめくる手に目が追いつかないほどだった。そんなに速くは読めないよ!>自分

それにしてもこの妹、超むかつく!でも、結局いいヤツだったのか?正しいヤツだったのか?誤解されやすいだけの、損な性格のヤツだったのか?

私は(小説にはっきりそう書いてあるにもかかわらず)いまだにそれが信じられない(笑)。

前半で友達が減っていくのはてっきり妹が工作しているものと思ってたし、後半に入って舞台が東京に移ってからも妹が田舎から裏で手をひいてるんじゃないかと思ってハラハラしてた。

だってホントにムカツクんだよこの妹の態度!

こういう「現実的」で保守的で、なぜか常に偉そうで上から目線で、人を仕切りたがるヤツって大嫌いだ!それだから作者の誘導にまんまとひっかかって、というより作者の意図を越えてエキサイトしてしまった。

この小説から批評家的なテーマを取り出すとすれば、それは現代におけるコミュニケーションの困難ということになるのだろう。

真相がそんな歪んだ姿をしているのだとすれば、他人とコミュニケーションを交わすことなんて出来やしない。どんなに頑張っても、目の前の話し相手の言動を役者の演技とは見做せない。おしゃべりの間中、裏表が見抜けずにあたしはまごついてしまうばかりだろう。口に出した言葉はまともにキャッチされることはなく、宙空をふわふわと漂って、そのうちシャボン玉みたいにぱちんとはじけて消えてしまうのだ。どこにも言葉が届かないのは、もともと受け取り先自体が存在しないからなのだ。

あの頃は、面と向かったコミュニケーションなどおよそ不可能だった。わたしには無理だった。単なる会話がたちまち暗号解読の作業になってしまうからだ。わたしにとって他人との対話は情報量が多すぎた。いっさいが意味あり気に感じとれた。表情の変化も口調も身振りも、何もかもが言葉の疎通を阻害した。私は誰のものであれ、感情というものを疎んじていた。生身の実在は多弁すぎて鬱陶しかった。みんな交通標識にでもなってしまえばいいのにと願っていたほどだ。

そしてこの小説自体は、携帯電話の電子書籍サイトにて連載されていたものらしい。ホントよくできてる!阿部和重ノーベル賞あげたい!


私はマジで阿部和重の小説を世界中の人に読んでほしいと思う。

彼は時代の雰囲気、人々に共通の思念や欲望に素直に共鳴して、それを何倍にも増幅して映し出すタイプの作家ではないだろうか。かつて大江健三郎村上春樹や、さらにいえばゾラやディケンズドストエフスキーがそうであったように。

彼は世界中で読まれてもおかしくない「正統派」の作家だと私は思う。

その倫理性、ポリティカル・コレクトネスからしても申し分なし!

何より、彼の作品ほど面白い小説が、日本と限らず世界中で、いま現在、ほかにあるだろうか?私が知らないだけなのだろうか?

日本には他にも私のかつて大好きだった作家がたくさんいるし、その多くは今でも大好きだ。

しかし、ある作家はもはや一部の世代にしか共感を呼ばない特殊な作家になってしまっているし、また別の作家は、ちょっと常に小説の中に空虚な中心をつくってその周囲を思わせぶりにグルグルするようなところがある。

また別の作家は、どうも変な風にエスタブリッシュメント中産階級的安穏?に回収されつつあるようなところがあって、最近の彼の小説は、少なくとも私にはあまりピンとこなくなってしまった。

文句なく面白くて個性的だけど、書きたいことが日常的かつ普遍的すぎて、いまいち現代という時代そのものとの接点が小さく思える作家もいる。

そんな中で、やはり「正統派作家」への私の一押しは阿部和重なのでした。つうか、単に世代が近いから共感しているだけなのかもしれんが。

今まで彼の小説をいくつか読んできての印象だが、これからも彼はいくらでも書き続けていけるんじゃないかという気がする。もっと強烈な個性を持つ作家は他にたくさんいるが、考えてみれはその個性というのは小説のテーマを限定してしまう。阿部和重(の小説)にはそう言う意味での彼の「コア」とか「個性」というものがない。これはもちろんほめ言葉です。

阿部小説はまた、反「私小説」をめざす作家たちの理想郷でもある。完全なステルス状態、あらゆる限定からの「逃走」の希有な成功例でもある。

彼は時代の感性を映し出す鏡(神社の中にぽつんと置かれた)、エーテル(無色無味無臭の理想媒体)だ。彼は時代の空気を代弁する巫女だ。

彼の中に詩(韻文)はない。彼の作品に詩的なものがあるとすれば、それは時代が持つ詩の反映にすぎない。