えっ、攻撃?さあ、どういうふうにやるんだろうねえ 〜プラスティック・ソウル〜

阿部和重『プラスティック・ソウル』読みました。

最初、どこかアメリカの臭いがした。アシダ、イダ、ウエダ、エツダという記号のような名前にはポール・オースター『幽霊たち』を連想したし、ところどころ村上春樹風の部分さえあると思った。でも読み進めていくにつれ、そんな印象は薄れていった。

著者自身があるインタビューの中でのべているように、この小説には、例えば『ニッポニアニッポン』にあるような、はっきりとあらわれた中心がない。

……まずい点をもっと明確に言ってしまうと、常に中心から逃れようとしているように読めるんですね。はっきり言ってしまえば、それではダメだ、そこを一番変えなきゃいけないと思ったわけです。『プラスティック・ソウル』は、中心=主題の在り処を曖昧に匂わせつつも、結局それは明示せずに周囲をぐるぐる回っているだけで終わってしまったように見えます。全く逆に、『ニッポニア・ニッポン』は、中心はここにある、ということを愚直に明示した上で書かれた小説です。そこが一番の違いなんじゃないかな、とは思います

これが書かれた時期としては『インディヴィジュアル・プロジェクション』が出た直後らしい。私は『インディヴィジュアル……』には良い印象が残っていないし、小説としては『ニッポニア……』や『シンセミア』のようがより整理され、韜晦がなく、その構成も影響範囲も明快な「良い小説」だと思うが、本書も面白く読めた。

いわゆるメタ小説の一種で、読み進むに従ってどんどん謎に巻き込まれていくような感じがとてもいい。全体の夢の中のような雰囲気と荒唐無稽さ、記憶力の弱いジャンキーで信頼できない主人公はカズオ・イシグロ『充たされざる者』を連想させる。(そう言えば、「Gだから?」とか、謎の便せんの透かしなどというわけの分からない忌諱感のようなものも、『充たされざる者』の「なんとかの塔」を思わせる。)

しかし上で著者自身によって述べられたような「弱点」なら『充たされざる者』にだって、それにそれを言うならばカフカの『アメリカ』とか『審判』にも共通するものだ(『変身』には立派な中心があり完璧なオチもついているが。あと『城』は、不在の中心というテーマがかえってはっきりしているかもしれないが、それを言えば『審判』だってそうか)。

下手にやったらどうしようもなく鼻持ちならない「くそメタ小説」になるところだが、そこは阿倍のうまさで最後まで読ませてくれる。頭のいい人はいいなあ。

アシダがウエダにXを飲ませる場面でのアシダのデタラメさ加減は秀逸。まあオタッキーなカモを嬲って喜ぶような内向きのユーモアではあるが。あと、最後の東京タワーの話で、「えっ、攻撃?さあ、どういうふうにやるんだろうねえ」には笑った。