電車の中で人を観察、そして、ゲシュタルト崩壊

電車の中で人の仕草を見るのが好きだ。特に完全に眠りこけているときと、人と会話しているときが狙い目。眠ってるときは言わずもがな、会話しているときも、相手との何層ものレベルにおける情報の交換に精一杯で周囲の人間にまで気が回らないから。目を閉じて寝たふりしてる人はやることがないから、案外自分の外見のことを考えてたりするんだよね。

そんでこの前、杖をついた目の見えない女の人が電車に乗ってきてわたしの隣に座った。付き添いの女性もいて、ふたりで話している。盲目の人が話すと、付き添いさんは妙な風に笑う。高く細い声を、1秒に4サイクルぐらいの周期でこまかく波立たせる。

そうやってなんでもはっきり声に出して反応しないと相手に伝わらないからね……などと思いながらその妙な笑い声に引き込まれ、じっと耳を傾けていると、とつぜんゲシュタルトが崩壊した。つまり、どうしてその高音のこまかい震えが「笑い」になるのか、分からなくなった。

もっとも、その笑いだけを録音でもして切り取って人に聴かせたら、それが好意の印かそれとも悪意を表すものなのか、だれだって判断はつかないんだろう。しかしその盲目の人には付き添いさんとの信頼関係があって、笑いのBGMに抱かれて、とてもリラックスして話しやすそうだった。

つまり、会話ってものはゲシュタルトのかたまりみたいなもので、とても複雑なことなんだけど人はそれを易々とこなしている。たとえばわたしなんぞも昼休みに大勢で食べに行って会話に入ろうという瞬間には、なにかいつもとはちがうモードに頭を切りかえているのを感じる。それは、サーフィンで言えば思い切ってヨイショと波に乗っかるときのような感じ(サーフィンやったことないけど)。体はとても複雑なバランスをとっているんだけど、何をどうやっているのか、何が起きているのか、大脳では関知しない。そういう意識と無意識の境界ギリギリのところで生まれてくる仕草を見るのは楽しいなあ。人の「グレイス」とか野暮ったさというのもその辺りに宿っていると思われるし。