即断即決!ロボコップよりも逡巡しない男 〜捜索者〜

1956年製作、ジョン・フォード監督の『捜索者』みました。

1868年。南北戦争の余塵さめやらぬテキサスで、「アメリカ連合国」の兵隊だったイーサンは弟一家が暮らす家に帰ってくる。ところが罠にはまって家を出ている隙にコマンチに弟一家を殺され、下の娘のデビーだけは生きたまま連れ去られる。デビーを探す長い旅が始まる。

主人公のイーサンは即断即決、あまりにも何事にも迷いがない。まるで感情がないようにも見えてくる。良い軍人とはこういうものなのだろうか?

とはいえ、ヒーロー礼賛のご都合主義映画ってわけではない。イーサンはスペイン語コマンチ語もぺらぺら。当然コマンチ族の習慣もよく知っているので、川の向こうでコマンチが歌っているのが「死の歌」だからすぐに攻めてくるだろうということも分かれば、コマンチたちの会話を聞いて状況を察知することもできる。

ところがですよ、他方でイーサンはコマンチを憎悪していて、退却していくコマンチの背に向けて執拗に銃を撃ち続けて仲間に止められたりもする。教会でコマンチにさらわれていた白人の女たちに会うと、英語もしゃべれず、奇声を挙げたりしている彼女たちを前に、「彼女たちはもう白人じゃない、コマンチなのだ」と言い放つ。その口調はほとんど、コマンチ=白人とは別物=殺してもいい、と聞こえる。身についた文化による徹底した差別。

差別と言えば、イーサンはかつてコマンチに家族を殺されたマーティンを引き取り、マーティンは弟家族の一員として暮らしてたんだけど、彼には八分の一だけチェロキーインディアンの血が混じっていて、それを理由にイーサンは彼を嫌う。デビーの捜索はほとんど彼と二人でやるんだけど、命を助けたり助けられたりするくせに、ちっとも友情が芽生えてくる気配がない。

文化で差別、血で差別、友情はなし……冷血漢ですな。

それで、数年かかってとうとうデビーを見つけるんだけど、デビーが「私はもうコマンチの家族ですから帰ってください」とか言うと、イーサンはさっさとデビーを撃ち殺そうとする。ホント何の逡巡もなく、ですよ。決断早すぎ。条件反射?ロボット?マーティンがかろうじでとめに入る。

最後に憎きスカー酋長の集落を見つけて襲撃する。デビーはイーサンから逃げるんだけど、その砂まみれになりながらの必死の逃げっぷりにようやく心が動いたのか、イーサンはコロッといつもの方針を変えて、デビーに向かって「家に帰ろう」と言うわけです。はあ、よかった!

敵になかなか復讐できないこのリアルなもどかしさは西部劇に対して抱いていた偏見をくつがえして新鮮だった。映画の中の時間のほとんどは情報収集。イーサンは軍人とはいっても一匹狼で、むしろハンター+探偵といった感じ。

コマンチに育てられた一家の娘という展開も、一歩間違えば白人とコマンチの境界を曖昧にし、そんな区別を解体してしまう種をはらんでいると思うが、そうはしないわけです。

たとえばデビーがコマンチの子供を生んでいて、それをイーサンたち白人が殺してしまったら……?悲劇、身内同士の葛藤、憎みあうことのむなしさ、戦争のむなしさ……みたいな別の物語になってしまうところだけど、そうはせずに、あくまでも悪のコマンチに復讐し、お姫様を助け出すという物語の枠を越えないぎりぎりの所でとどめている。

と、ここまで書いて読み返して思ったんだけど、イーサンが「彼女たちはもう白人じゃねえ、コマンチだ」って言うとき、そこには白人の側からみて彼女たちを白人とは認められない、という意味のほかに、彼女たちにとってみればもうコマンチの価値観でしか物事を判断できないだろうからな、ということがある。つまりなにかと言うと、一番大変なのはこれからのデビーだ。それは単に白人の習慣やらしきたりに慣れるのが大変という以上に、今までは「白人はよそからやってきて我々の土地を奪い家族を殺す悪魔だ!だから彼らが死んだり頭の皮を剥がれたときにはヤッホー!って叫びなさい」と教えられていたのを、これからはまったく逆の反応をしなきゃならないのだから。

まあ、まずコマンチに殺された家族の墓参りから始めて、徐々に自分を洗脳していくしかないね!

それにしても、デビーがイーサンから必死に逃げて追いつめられて、「家に帰ろう」って言われたとき、彼女は本当に家に帰りたかったのだろうか?映画の中ではもちろん彼女は笑顔でうなづくんだけど……。ひょっとするとこの映画の中で一番ウソくさいのがこのシーンだったかもしれない、とふと思った。