清水公園と駄洒落の銀行名について

昨日は清水公園に行ってきましたのでレポートします。

この広い公園の内部はいくつかのゾーンに分けられていて、フィールドアスレチックやアクアベンチャー(迷路+噴水)、ポニー牧場、花ファンタジア(植物園)などは有料になっています。

最初に見たのが公園のはしっこにある旧花野井家住宅(無料)。

流山市前ケ崎にあった花野井四郎氏の住宅を、昭和四十六年(1971年)野田市が寄贈を受け、清水公園の近くに移築したもので、十七世紀後半のものと推定される住宅です。国の重要文化財

管理のおばさんが一人いる以外は訪れる人もなく、ひっそりとしていました。庭の草木もよかった。

次に見たのは金乗院参道の入り口にある仁王門。

公園の中心にあるのが慈光山金乗院です。

境内にある巨大な百日紅

同じ境内にあるこの桜の木も、大きく幹が割れながらもがんばってます。

野田市による清水公園紹介ページより引用します。

明治27年(1894)、茂木柏衛翁が、金乗院の有する林地の一部を惜りて公園として建設し、同年4月3日に開園。一般に開放された公園で、(株)千秋社が経営しています。
当初は『聚楽園』と名付けられていましたが、地名が『清水』ということから、いつとはなしに清水公園と呼ばれるようになりました。その後、昭和4年(1929)に本多静六博士の設計に基づき現在の規模にいたっています。

つまり清水公園金乗院を中心に、有料のゾーンと無料の公園とが組み合わせた公園なのだが、そのバランスがとてもいいと思った。

ポニーあり、山羊あり、迷路に噴水あり、アスレチックにキャンプにバーベキューに花畑あり。子供のいる家族にはぴったりの、盛りだくさんの公園だけど、子供連れでない人も十分楽しめます。

おすすめは水上アスレチックの横にある巨大な藤棚。この下には観客席のようにベンチが並べてあって、アスレチックをやってる人たちの様子を日陰から一望できるようになっている。この日もお年寄りたちが数人、アスレチックで歓声をあげる子供や大人を眺めていました。

ちなみに水上アスレチックというのは池の上にこんな風なコースが木で組んであるというもの。子供だけでなく大人のグループいて、子供以上に声をあげてました。当然ですが失敗すると濡れちゃいます。この日も私の見ている前で男の人が「水面突進」に失敗し、池に投げ出されて全身ずぶぬれになってました。半端なく暑い日だったので、あれからあの人は犬のような臭いを発し続けて周囲から顰蹙を買ったことでしょう。

最後に行ったのが、手違いにより写真の撮れなかった「花ファンタジア」。完全にシーズンオフ、かつ早い時間、かつうだるような猛暑だったので中は閑散としていた、というか、完全貸し切り状態だった。花の手入れをする園の人以外、客らしき人には結局一人も出会いませんでした。

イングリッシュ・ガーデンにはそれなりに草が繁茂していたし、ローズ・ガーデンではバラの香りもしていたようだけど、なにせ暑くて意識が朦朧としていたためよく覚えていない。

温室もあるんですが、窓は開けっぱなし。影の中にいるだけ外よりも涼しい!日本がすでに亜熱帯編入されつつあることが実感できました。

しかしさすがに有料だけあって手入れはしっかりとされていることがよく分かった。梅や菖蒲やラベンダーやボタン、シャクヤクアジサイの季節にまた来ようと心に誓いました。この時期はきっと一年で最もシーズンオフなのかもしれない。


マイナーな行楽施設の中には赤字のためにろくに管理がいき届かず、どこか寂れた感じが漂っていて、そのためさらに人足が遠のき儲からない、という悪循環に陥るところもあるようですが、清水公園はそういう心配には無関係だと感じました。

有料の部分のほとんどは小学生以下の子供向けに特化していてコンセプトが明確だし、公園の中核には寺とそれを囲む森があって一般の人々も利用している。敷地はとても広くてゆったりとしていて、しかも外部に開かれていて、誰でもふらりと来やすいようになっている。それらがうまく組み合わさって良循環をつくり出しているという気がしました。

ちなみに駐車場(有料ですが)もあります。近隣にお住まいの方にはおすすめの公園です。


私は野田というところは今回初めて行ったんですが、醤油で有名な町らしいですね。清水公園を運営している千秋社もキッコーマンの系列の会社らしい。野田市のサイトの説明によれば、もともとはいくつかの醤油会社が合併してできた会社とのこと。

帰り野田の市内を通っていると、千秋社の社屋を見かけました。このサイトにその社屋の写真が紹介されています。建物には「近代化遺産」というプレートがはってありました。

この建物は大正十五年に野田商誘銀行(笑)の建物として建設され、その後千葉銀行の支店を経て千秋社の所有となったらしい。

野田は地域に大きな軍事施設を持たず、爆撃目標にもならなかったため、他地域に比べて戦争の被害は少なかったそうです。千秋社の社屋と同じ道筋には他にも味のある建物をいくつか見かけました。京都なんかとはまた違った意味で歴史を感じさせる町でした。